なんで関が原後は開城しちゃったんだろう
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>>62
条件が全く違う。
もともとは、豊臣家の恩顧に報いよとの大坂方の呼びかけに応じて戦っていただけ。
その肝心の豊臣家が家康と戦う気を無くした時点で、自分達が戦う理由がなくなった。
宗茂自身、徳川家に敵対心を燃やしていたわけでもない。
大坂城で篭城戦を主張したときの豊臣家のヘタレぶりに、むしろ嫌気がさしていた
と思うよ。
>>65
それに対島津戦は、豊臣勢がもう近くまできているという希望要素があるし、
大友の陪臣から豊臣政権の直臣へクラスアップという芽もあった。
一方関ヶ原後は輝元にもはや戦意はないし、長期的に見て勝てる要素がない。
一応、念には念を入れた、宗リンへの目付役として、とか・・・・・・は ないか <豊
>>77
常に道雪と緊密に連携していたらしいから、単独の戦いというのは少ないんだろうねぇ
岩屋城だけで合戦数回分くらいの意義があるのかも知れんけど
歴史学上は、どれを正式名称とするべきなのかな?
立花道雪?戸次道雪?戸次鑑連?
その辺は武田信玄とか大友宗麟とかあるので置いとくとして
「立花」姓が正しいのかどうなのかってところが気になって。
wikiで論争になってるから
現在の立花家では初代を宗茂として、道雪は立花と呼ばないって十七代目のホムペに書いてたよ^^
本家がそう言ってるなら、これ以上の確証はないね。
忠義な家臣団なんかはごっそり受け継いだわけだしね
影響あっただろうけど、実際には立花氏のはじまりは宗茂の代から、って認識でいいのかな?
本家・戸次氏の親子の方の血筋は残らなかったのかな?
島津の北上戦で両方死んじゃったみたいだけど
>>173
細かい戦歴を全部書くのは面倒だからしないけど
岩屋城の玉砕以前にも、散々数で上回る秋月勢を幾度となく打ち破ってる。
間者を使って援軍到着の虚報を流して撤退させたり
偽援軍の旗を立たせて、撤退させたり・・・
まあ、秋月勢が策にひっかかり過ぎってとこもあるけど。
完全に筑前で孤立した中で
秋月・筑紫・宗像・原田らの攻勢を退け続けたのは
道雪と紹運のおかげ。
当時の勢力(石高)は、およそだけど
秋月 30万石
原田 5万石
宗像 5万石
筑紫 5万石
立花 6万2800石
高橋 3万石
だそうです。
質問が2つ。
1・蒲池宗磧=角隈石宗?
吉永正春著・「筑前戦国史」にて(吉永氏の他の著作にもよく出てくるんですが)
大友家に仕え、宗茂の軍学の祖に当たる軍学者として「蒲池宗磧」なる人物が登場します。
耳川の合戦で戦死し、その直前に秘伝の軍学書を焼き捨てた、とあり
まんま事跡が角隈石宗と被ります。
両者は同一人物でしょうか?
「蒲池宗磧」の方だと検索しても何も出てこないもので。
2・安東家忠について
立花四天王の1人で武勇絶倫・・・とあるにも関わらず詳細な事跡について情報が乏しいです。
彼の子・連忠(雪貢)や、孫・連直も立花家に仕えているので
かなりの人物であったと思うのですが、具体的な生没年や事績などわかりませんでしょうか?
同じく、子・孫の事績についてもわかりましたらよろしくお願いします。
蒲池宗磧とは、大友義統全盛期の筑後国人で15城の筆頭大名だった柳川城主の蒲池鑑盛(蒲池宗雪)です。
安東紀伊介家忠、又名宗忠。
家忠の長子は、永祿十年寶宝満山合戦戦死の安東連実だよ、次子連善、三子連忠(雪貢)
連直は連実の子...
連忠、連直は道雪歿後、家老衆を昇上(家忠隱居?)、この点を推測で、家忠は立花四天王最年老...
血筋が良いわけじゃないのにこれはな…
猛将とか色々と合うのがあるのに。
高橋、立花の血筋が良いとするとどこの家も譜代家臣はだいたいサラブレッドになっちゃうよね。
ガチで足利流の国人もいたくらいだし、先祖が疑わしいのに血筋を云々と言うのは違和感あるなぁ。
大友も含めてだけどさ。
元は大友から別れた一門とは言え別れて数代たった陪臣だからなぁ
大名の頭首を実父と義父に持つと言うのならサラブレッド感高いが
同じく陪臣から大名となった黒田や竹中同様成り上がり感は否めない
武将として双方から受け継いだものとかそんな感じなんじゃないの?
サラブレッドには「育ちがよく、優秀な人」て意味もあるから(ソースはyahooの辞書)
別におかしくないな
吉弘、高橋、立花
いずれも名門だわ
それに、叔母さんは、大友義統の正室だわさ
宗茂の祖父も伯父も従兄も弟も凄い。
「サラブレッド」という表現を使ってるって思うだろ。
元の立花は裏切り者なわけだし
ゲームじゃもの凄い能力高いけど正直過大評価だと思う。
道雪は長年北九州の抑えとして、毛利や大内、龍造寺、秋月らと延々戦ってたけど、
宗茂は朝鮮出兵で多少活躍した程度。
同年代では、政宗とか戦争しまくり(あんまり強くないけど)、信繁も大坂の陣で花を咲かせたのに。
その程度なら北条氏照とかもやってるし実戦経験も豊富。
吉川元春、小早川隆景なんかも実戦経験豊富で長年、中将、大将レベルの地位でこれといった失敗が無い。
過大評価されすぎ道雪
そもそも「宗茂は実績が凄いけど道雪には実績が無い」とか言うから、道雪のほうがよっぽど凄い戦歴だろと答えたわけで。
道雪の戦歴が「その程度」なら、「その程度」ですらない宗茂はなんなんですか?
>吉川元春、小早川隆景なんかも実戦経験豊富で長年、中将、大将レベルの地位でこれといった失敗が無い。
立花の合戦ではその小早川隆景の陣を突いて毛利を敗退させたのが道雪なんですけど
それこそ立花の両名に劣るじゃねーか
べつに紹運の指揮が凄かったわけじゃない。
兵の士気が盛んで玉砕すればどの部隊だって苦戦するわ。
それで逃げ場が無かったら尚更強力。
背水の陣って知ってるか?
岩屋城の戦いだけど。
なんで兵の士気が盛んだったの?
二万余りの敵軍に対して700人で篭城するなんて完全な負け戦だよね。
普通は士気なんか上がらないよね。
しかも逃げ場がなかったわけでもないよね。
島津は先を急いでたし、降伏勧告も出してる。
城を包囲されるまえに逃げ出す余裕もあった。
なんで兵は逃げなかったの?
そもそも宗茂の提案を蹴って、時間稼ぎの為に岩屋城に篭ったのに逃げられる筈も無いわな。
また、その意を汲んだ家臣や、決死の思いで立花城から援軍に駆けつけた宗茂の家臣達も士気が低い訳がない。
攻め手を囲うように兵を配置し、突撃してきた島津兵を撃退。
更に外郭が破られると一斉に雪崩れ込んできた敵に対して大木や大石を落とし撃退。
敵の動きを予測し、万全の状態で準備をし、士気の高い兵がこれに臨む。
紹運も見事だったし、兵の士気も高かった。
あと、道雪と行動を共にしているんで陰に隠れてしまっているけど、多くの戦いで活躍してるのにね。
>>257
まぁ提案蹴らなかったとして……
紹運が、宝満城や立花山城にいったら、間違いなく岩屋はあっさり陥落するかも……。
んで、次に行く路線は
1:立花山城に立花宗茂(この頃は立花統虎)、宝満城の高橋紹運&立花統増(この頃は高橋統増)。
2:立花山城に立花宗茂&高橋紹運、宝満城の立花統増
→島津からすれば、港や海岸線抑えていくことが九州平定には重要だし、岩屋の被害がないとすれば……
1の場合は、宝満城での兵では士気の高い戦いは期待できない上に、立花山の宗茂に
島津兵が、集中することになると……。宝満城は調略にかかって混乱しやすいし、必ず寝返るヤツとか出て
意外に脆いんじゃないかと思う。場合によっては、立花山集中で連絡網や補給路さえ切っておいて
兵糧攻め状態にして無視すればいいわけだし。そうなると宗茂頼みになるという……
宗茂は今だからこそ名将扱いだが、その当時はまだ若いしかなりリスキーなことを押しつけることになる……
2の場合は、統増にかかる負担が高くなる。宗茂が立花家にいった以上
統増が紹運の跡継ぎ候補。跡継ぎを失うと言う意味で高橋家の存続問題……
統増に島津の兵が岩屋を通り超えて宝満にいけば、実際も調略にかかってるわけだし……
調略で混乱するから、指揮が難しい。まともに動くのは困難……
よって立花山集中となって紹運と宗茂の2人で迎え撃つと……秀吉軍(吉川&小早川)上陸
が8月になるけど……島津の士気はかなり高い……
結果的に見ても岩屋篭城しか道はなかったのかも……
篭城で活躍した奴なんかゴロゴロいる。
守りの堅いとこに力攻めすれば損害出るのは当たり前。
島津は野戦は強いが城攻めは下手糞だね。
島津がヘマやったたげだろこんなの。
早くしなければ豊臣軍が来ると言うあせりもあったかもしれんがこんなの凄くない。
過大評価云々じゃなく子の為(無論それだけじゃないだろうけど)に自ら盾となる
父の姿に心打たれるんであって。
>>276じゃないが、戦国時代の籠城の名手と言えば
武田相手に長篠城に籠城して撃退した奥平信昌とか
津軽・南部・戸沢・小野寺の連合軍に兵300で撃退した秋田実季とか
徳川秀忠の部隊を2000で足止めした真田昌幸とか
西軍に兵500で二ヶ月耐えた細川藤孝とか
パッと思いつくだけでも結構いるんじゃないか?
上の連中はちゃんと生還しているしな。
高橋紹運や吉川経家のように死んだ連中も入れればもっと増えるだろう
長篠城は撃退したというのは語弊があるな。
食料庫まで落とされて、落城寸前だったわけで、援軍が来たから相手が引き揚げただけだろ。
守りきったとは言えるけど。
>>289
長篠城の役割は、援軍が来るまで守りきる事。
つーか、城単独で撃退なんてこの時代不可能だぞ。小田原城に対する謙信や信玄の撤退だって
外的要因のおかげなんだし。
逃げ場も無い。降伏もできないなんて状況になれば人間必死になるぜ。
裏切り者を出すこともなく全員討ち死にするまで戦い抜いて見せた奴がゴロゴロしてるのか。
とりあえず10人くらい挙げてみてくれ。
絶頂期の織田軍約5万と戦った仁科盛信とか
豊臣方のそうそうたるメンバー約4万相手に戦った鳥居元忠とかも
結構がんばってるな
>>277
島津方の総勢2万余と言う説もある
紹運の手勢は763人とはっきり伝わってる
荒れる元になるので余り数を粉飾しない方が良いのでは?
>>283
高遠城の戦い 織田5万対仁科3千 1582年2月29日~3月2日 織田方の死傷者数百
伏見城の戦い 西軍4万対鳥居千8百 1600年7月19日~8月1日 西軍の死傷者3千
岩屋城の戦い 島津5万対高橋763 1586年7月14日~7月27日 島津方の死傷者4千5百
島津軍5万っていうのは、貝原益軒の「筑前国続風土記」での数だね。100年後に福岡で書いた
ものだろうから正確なものではないかもしれんが、実際の数を検証出きる訳ないし、通説としては
この数で良いんじゃない。
5万はないね。
別方面にも義弘軍や家久軍もいたのに島津に何万いたんだよっての。
島津以外の従属勢力も多かったらしいがそれでも多い。
で調べてみるとやはり大友、立花側のは5万で他は2万と書いてるね。
やはり自分の方に都合のいいようにしか書かないんだよね。
5万もいるわけないじゃん。
参加しなければ敵対したものとみなされる。
耳川の時も、大友・島津両軍で9万人が戦ったといわれているから、大動員をかければ、
非戦闘員も含めて5万人は多すぎないよ。
まあ、百歩譲って2万人だとしても、島津の損害については通説では4千人をこえている。
負傷者の搬送にも人数を裂かねばならないから、戦力はがたがたになってたことになる。
かえって島津軍2万のほうが、凄かったという話になる。
しかし、長期遠征となると、領内の経営はできなくなるから、動員兵力は
半分くらいにしないといけない。
豊臣時代の1万石で250人という軍役は朝鮮などへの長期遠征を前提にした
もの。
が1万余の軍を率いてたことと、根白坂で2万になっていたことか
ら薩摩、大隈の島津の直轄領からの動員が2万で、肥前、肥後、
筑前、筑後、日向からの加勢で5万くらいになっててもおかしくは
ないと思うんだがね。
島津がほとんど参加してない岩屋城に5万となるとこれに島津軍足したら8万は軽く超えるのか。
関ヶ原の東軍なみじゃん。
毛利でも従属勢力足しての上月城の戦いで6万が最高だった。
島津ってすげーんだな。
北条でも8万なんか無いだろ。
日向は豊後大友家の押さえとして残しとくとして、肥前・筑後・肥後・薩摩の
合計石高は200万石を越える。
これは北条の250万石とさほど変らんぞ。北条なら6万人以上動員できる。
中央に比べ兵農分離が進んでない九州は、まぁ3万が妥当な線じゃね?
特に他の地域より身分制度が厳しかった薩摩では兵農分離が遅れてたしね
ただ薩摩の場合、表石高で動員数探ろうとすると見誤る可能性がある
薩摩はシラス台地のせいで九州内での耕作地における田の割合が他の地域より少なく
一般の主食は穀類の割合が高い、従って実質石高より1~2割は多めに動員する事は出来ると思った方がいい
そうか?別の話だが蝦夷の松前藩なんか雑穀ばかりで米が取れないから小名以下なんだが
幕府のお情けで一万石の大名扱いにしてもらったって聞いたぞ
おかげで海産物や貿易航路の開発で経済力は10万石とも20万石とも言われたが
家格は1万石なので家臣の数や納税は安く済み、松前藩のフトコロはウハウハだったとか
>>314
つーか、江戸期の諸大名の石高は、全体的に低めに設定してある。
これは諸大名がそうしたのではなく(むしろ諸大名は、江戸での権威や立場を上げるため
石高を大きくするよう幕府に働きかける事が多かった)、
石高が大きくなると諸役の義務が大きくなり、領民の負担が重くなる。それを抑えるために
幕府の側がわざと低いままにしていた。
表高と実高に実際どの程度の差があるかなんて、幕府は全部把握しておる。
松前藩なんて特殊も特殊なモノを出してどうする
つか貿易による利潤は雑穀じゃねーだろw
だいたい江戸時代の表高を真に受けるなよ。南部藩ですら実際は二倍あるんだぞ
まあ、表高と実高はイコールじゃないわな。
土佐なんていい例だ。太閤検地によると、土佐は
10万石弱だが、実際は20万石ほどあった。
島津の兵力に話を戻すが、『勝部兵右衛門聞書』などを参照すると、
筑前出兵の兵力は2万あまりとのこと。
ただ、途上で秋月など九州北部の諸将を糾合してるので、実質はもっと
多いかもしれないな
肥前 309935 肥後 341220 日向 120087 薩摩 283488
大隅 175057
太閤検地は普通でも、それまでより3~5割石高が増えたそうな。
石高の拡大率が少ないと、奉行衆が秀吉に「もっと増やせるだろ何やってんだ!」ってお叱りを受けたそうで。
肥前は鍋島だけで30万石を超えてたと思ってたが、その後急増したのかな。
筑後も立花家だけで13万石はあったと思う。立花家で筑後の半分もなかったような‥
関ヶ原前後における大名領地表1
http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/data_5over.html
関ヶ原前後における大名領地表2
http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/data_5miman.html
これ見ると肥前は50万石超えてるから、>>320から関ヶ原までに20万石以上激増し
てるな。
>>320の石高を元に
1万石につき五百人の軍役の場合
筑前 325695石 16284.75人
筑後 265998石 13299.9人
豊前 140000石 07000人
豊後 418313石 20915.65人
肥前 309935石 15496.75人
肥後 341220石 17061人
日向 120087石 06004.35人
薩摩 283488石 14174.4人
大隅 175057石 08752.85人
九州計 2379793石 118989.65人
筑後+肥前+肥後+日向+薩摩+大隅の場合
合計74789.25人
上記の数値を考慮すると
島津最盛期50000人は非現実的ではない。
1万石につき五百人軍役とした場合、合計約7万5千人となる。
とすると7万5千人の3分の1に過ぎない島津最盛期5万人は
現実味のある数値といえる。
文禄の役1592年
九州勢で構成されるのは
一番隊(小西・宗・松浦・有馬・大村・五島) 兵力合計18700
二番隊(加藤・鍋島・相良) 兵力合計22800
三番隊(黒田・大友) 兵力合計11000
四番隊(島津・毛利吉成・高橋・秋月・伊東) 兵力合計14000
六番隊(小早川隆景・小早川秀包・立花・高橋・筑紫) 兵力合計15700
文禄の役1592年に於ける九州勢の兵力合計 =80500
最盛期の島津は九州広域の諸勢力を糾合しているから
新規の従属勢力も含めて兵力50000は決して非現実的な数字ではない。
それはダウト
文禄検地で石田三成が苛烈と言ってもよい検地実行してますが何か
その検地結果で中の家臣の領地替えした結果大名権力を強化したと言われる一方、家臣の不満はMAX値になり、
秀吉が死んだ後に検地責任者の一人・伊集院忠棟一家を滅亡に追い込むまでに至りましたが
>>331
つーかそれこそ、島津家が強大な中央政府の権威無しに検地すら行えなかったって事の証拠だろうに。
それに島津家が三成に「検地なんてとても出来ない!家が潰れる!」って泣きついてきて
それに対して三成が「じゃあ村の数だけでいいから報告しろ、それを元にこっちで適当に石高はじき出す」
って書状が残ってる。
太閤検地で島津の石高はそれまでの差出検地から約3割増えたから、これは太閤検地の
石高増加率のほぼ平均。つまり、そういう「計算」ではじき出された石高だって事だ。
ぶっちゃけ島津とガチで戦ったわけじゃないよね
親父の踏ん張りのお陰で秀吉軍がすぐ来たし
それなのに何となく島津の大軍相手に城を守り通した的な
イメージがあるのはずるい
退却していくのにちょこちょこ刺したり雑魚から城を取っただけ
志賀親次と同列に語るのは止めて欲しい
8月の時点での援軍は毛利軍の3千が門司にはいっただけで
数万の島津軍が退くほどの数じゃなかったんだが、撤退するよ
うに仕向け、さらに追撃を仕掛けて完全に撤退に追い込んだ
知略と胆力は凄まじいと思うがな。
岩屋城後の島津側の戦意が低すぎる。
事実って「実際にあった事」って意味なんだけど、それを言うなら立花宗茂は着実に名声を得て大名になり、志賀親次は大友家を改易に追い込んだ
これが事実。
この二人を同列に語る事は宗茂に対して失礼だな
片や親父を追放してまで戦い抜いた勇将
片や親父に頼り切って良いとこ取りしたプ将
誰も志賀親次が宗茂より下なんて言ってないよな?
少なくとも対島津に限って言えば
志賀親次>佐伯惟定>立花宗茂
かな
立花宗茂、志賀親直、吉弘統幸と名将は出て来たが、当主が余りにも愚鈍
杉だったんだよな。勝ち組の宗茂は良いとして志賀や吉弘の最後は悲惨杉。
大友家改易後、藤堂家に速攻で再就職して四天王に数えられてる
佐伯惟定もまあ勝ち組か、弟は緒方洪庵の祖先だし
どっちが優れてるとかという議論自体最終的には主観だしね。
どう思っていても構わないけど、それがもとで罵り合いするようなネタでもない。
「誰々は過大評価」「何々は捏造」「歴史上の人物について雑魚、クズなど感情的な罵詈雑言」
以上3つを喚き散らすやつは、歴史系の板においては大体がろくなもんじゃない。
志賀親次に関していえば、実父すら島津についた中でも、岡城を守り抜いたから
こそ「天正の楠木」とまで評価されたわけだし、立花宗茂にしても、対島津戦だけでなく、
肥後一揆や朝鮮の役などの活躍があるからこそ、将軍家に認められ、西軍に与し
ながら本領復帰を果たしているんだから、どっちも優れた人物だと思うけどね。
>>488
吉統の倅(義述)が徳川に従ってたのに、確か毛利輝元の誘いに乗っちまったんだよね。
吉弘嘉兵衛の倅はたしか柳川藩に仕えたんじゃなかったかな。
>>492
志賀親次はかなり破天荒な人物なんだよなあ。
主君で叔父の大友吉統に対してやたら反抗的だったし、
岡城一帯の攻防では実際宗茂以上に活躍してるけど、
全体的には評価が難しいし、その辺は血が繋がってない
はずなんだけど大友宗麟によく似てる。
吉弘統幸は関ヶ原の時、宗茂が西軍に付く事を表明して、
徳川家にいる大友義乗と敵対することになるから立花家
から出て行ったんだよなあ。結局徳川家に行く途中で大友
吉統の挙兵を知ってそっちに加わるんだけど、敵側に付くっ
て言って出て行く従兄弟を送り出し、子供まで預かる宗茂は
まあ度量がデカイんだろうな。