日常でもビジネスでも何が起こるか分からない時代。こうした時代を乗り越える唯一の手段が「歴史」だ。時代も登場人物も違えば、まったく同じ歴史をたどることはない。しかし、似たことはこれまで何度も起こっているのである。「想定外」という言葉は、歴史の不勉強による想像力の欠如から発せられる。それならば歴史に学ばない手はない。本稿では、会話形式で歴史を学ぶ。戦国の世が終わり平和が訪れるかと思われたが、スペインとポルトガルを中心に欧米列強が日本に迫っていた――。
晩年の秀吉は実は狂っていなかった?
本の虫課長 前回お話した通り、秀吉はついに天下統一を果たしました。しかし、出陣してくれた武将たちへ与える土地が不足します。領土拡大のために明を支配しようと考え、朝鮮へ案内役を依頼しましたが、朝鮮はこれを拒否。そのために朝鮮へ出兵した――と、思いますか?
渡辺フミオ はい。天下を取った秀吉はそのおごりから、朝鮮出兵を企てたんですよね。高校生のときに予備校でそう習いましたが……。
本の虫課長 従来の説はそうです。ただ、歴史研究というのは日々、新たな発見が生まれています。例えば、歴史研究者の平川新さん(東北大学名誉教授・平川新氏インタビュー)は、「単に領土拡大が目的であれば、なぜ隣接する朝鮮への侵攻を初めから考えなかったのか? なぜ明や天竺なのか?」と素朴な疑問を持ち、数多くの史料をひもときました。
泉岡マリ それこそ秀吉の誇大妄想では? 晩年の秀吉は狂ってしまったとか、よく本に書いてあります。
本の虫課長 秀吉の誇大妄想説は以前からよくいわれてはいますよね。その方が物語としては確かに面白い。ただ歴史研究者というのは、何の証拠もないのにそのような結論を出すことはありません。丁寧に史料を読み解いて事実を導き出します。現存する史料をひもといていった結果、秀吉の「征明構想」は、スペインやポルトガルへ対抗するためであったという説が増えてきているのです。
渡辺フミオ え! そうなのですか? 秀吉は世界領土分割構想を知っていたのですか?
※続きは元ソースで御覧ください
ダイヤモンドオンライン 2021.1.3 4:55
https://diamond.jp/articles/-/257908
それ
スペインに対抗する為とか何とか
海外進出とは逆に海外から侵略される恐怖もあった。
そこを首尾よく収めたのが徳川家康。
割と楽に占領できたんだし
日本は東南アジアに進出してたぞ
山田長政すらも知らんのやろな
>>10
山田長政は東南アジアを制圧したのではなく、単なる傭兵隊長として使われて、最後は滅亡した。
日本が東南アジアを制圧したことはない。
貿易拠点として日本人街が東南アジアのあちこちにつくられてた。
その辺はオランダやイギリスと変わらない。
なもんで徳川幕府が鎖国しなければ欧州のような形で
伸長しインドあたりでぶつかったかも、てな説もある。
移民した日本人は、三代もすると現地に馴染んでしまって
それで日本人街は消滅してしまった。
中国人同士でつるんで現地の風習は拒否することで未だに残ってるチャイナタウンとは真逆。
それは日本と交流が絶たれたからだぞ
出典は忘れたが、日本人は日本の風習を持ち込んで他と交わらないなんて書かれた史料もある
新たな流入が無いと減る一方で、現地と融合するのはどこも一緒
だけど、それをやろうとしたのは秀吉では無くて織田信長だったみたいな感じだったなぁ
当時の秀吉なら外国人の話は聞いてるだろうし、おおよその世界情勢は承知してたろう
これが大名の家臣クラスが考えてたとかなら驚きだが、秀吉あたりなら何の不思議もない
近ごろじゃ「島原の乱はカソリックとプロテスタントの宗教戦争だった」って説もあるらしいね
>>12
そういう見方は必ずしも間違いではないが、根本的な部分ではない。
オランダが徳川や松倉氏に情報を与えたのは事実だし、オランダ軍船が原城を砲撃したのも事実だが、別にスペインが原城側に何か軍事援助したわけではないからね。
>>1
朝鮮出兵というより、
世界征服は、織田信長時代からの野望だったからな。
信長の軍事スローガン「天下布武」にそれが示されている。
本来ここは「日本(ヒノモト)布武」であるべきなのだ。もし日本だけの制圧ならば。
それを信長はあえて「天下」とした。
当時、天下とは、中国・朝鮮を含めて天竺(インド)などを包括する「すべての世界」を意味していた。
信長は、まっしぐらに「世界征服」を目指していた。
ちょうど、マケドニアのアレキサンダーがそれを目指したように。
そして両者とも、その征服のための最大の武器を「長槍」としたのは面白い。(ただ、信長はその後、鉄砲に切り替えたが)
秀吉が、信長の後継と自他共に許す限りは、
どうしても、その信長の野望に向かって突っ走るしかなかっただろう。
でも天下布武の天下は
近畿地方だけを意味するそうな
マジ?
五畿内(摂津・河内・和泉・山城・大和)を指すとの説もある。
横からだが
信長がその時代に残した史料からして
ほぼ確定してる説
足利義昭が天下(畿内)を収める、信長は義昭の権威でもって尾張の統治を正当化する。
ってのが初期の信長の戦略と言われてるな。
あの時代、近畿取ったらほぼ天下取ったも同然だしね。
天皇も幕府も掌握できるし。
三好は信長よりも先に機内をおさえてたのになぜああなったのか
後継者が悪かったし、足利贔屓が過ぎたって所だと思う。
三好の後継者選びの問題は、母親の血統も関係していた可能性も。
三好実休の嫁は武家の出だけど、鬼十河の嫁は摂家九条家の姫。
もっともあれ、地球の反対側のサラゴサ条約についての解説が思いっ切り端折っててわかりにくいんだけどね。
条約の名は「トルデシリャス条約」だぞ 間違えるな
大砲を積んだ装甲船も信長時代に「安宅船」に世界で初めて装甲を施し
毛利水軍を破っている。
当時、日本は世界に冠たる軍事大国でもあった。だから明を打ち破ろうと
朝鮮に出兵をしたんだろう。
案の定、朝鮮軍は弱く、弓矢しか持っていなかったので敗走に次ぐ敗走を重ねた。
ま、一度に征服するには朝鮮半島でも広すぎた、ってのはあるから
焦りすぎとはいえるんだよねー……
>>37
そうとも言えんな。
秀吉が健在なら、うまくやっただろう。
特に秀吉は軍事戦略より、後方の兵站を充実さすことに長けていた。
秀吉は、旧日本軍のような不様なマネはせず、着実に征服を重ねていっただろう。
マケドニアのアレキサンダー、その後のモンゴルのチンギスハンに見るごとく、
強い征服欲のある絶対的リーダーがいれば、意外に簡単に広大な地域を占領できる。
随分後年の、ヨーロッパの田舎国家のロシアが、あのシベリアの地の大部分を征服できたのも、それによる。
>>53
そこ重要なポイントですな。
実のところ文禄慶長の役の全期間を通して、海上の補給線は一度も途切れていない。
滞ったのは陸路ばっかりだったと。
韓国の仏教文化が破壊力されたと言われた
>>90
まず修学旅行先が韓国というのが酷いですね。
もう今後そういうことはなくなるとは思いますがw
半島で儒教を国教にした影響による仏教弾圧が起こったのは、太閤さんが生まれるもっと前の話だった思うがねぇ。
李氏朝鮮の仏教弾圧は15世紀初頭の出来事だから、16世紀中盤以降の人物である秀吉とは150年ほどずれているな。
李氏朝鮮が仏教弾圧してた頃の日本は室町幕府の初期。足利義満あたりが存命だし応仁の乱もまだ起こってない。
まあ話としては雄大で面白いんだけども
少なくとも信長はスペイン・ポルトガルを敵視してたような気配はない
家康にしても幕府を開いた直後はスペイン人に布教を認めたりするくらいには鈍感
周知の通りのちにイギリスやオランダの働きかけで方針転換した
スペイン・ポルトガルを目の仇にしたと思えるのは晩年の秀吉くらい
だったら、家康もキリスト教を禁止にはしなかっただろう。
秀吉も家康もカトリックを恐れていた。
だから、秀吉だけでなく徳川幕府もカトリックであるスペインやポルトガルを追放した。
朝鮮側が下手に反抗しちゃったから、朝鮮が戦場になったわけで。
黙って日本を招き入れて、明にも応援要請しとけば、日本と明が相討ちしていて、朝鮮は無傷だったのにね。
まあ国土は焼け野原になりますが、いつものことですし(白目
当時は通過させよ=補給のため略奪させろ って意味になる。
受け入れがたいのは確かだが、国力差考えろよって話だな
日本では全く無かったとは言わないけど上が煩くてあまり問題にならなかったよ。
>>119
1600年時点での人口推計は研究者によりバラつきはあるが
・中国=1億1千万から1億5千万人
・日本=1100万人から1800万人
ぐらいだったとみられている。
当時の日本軍が長い戦国時代で練度Maxだったことや、明が「北虜南倭」に苦しむ衰退国家だったことは確かだが、
それでも補給の厳しい渡海&アウェイ側の日本軍が、圧倒的人口とホーム戦の利を有する明朝を倒すのは極めて困難だったはずだ。
つまり、朝鮮が日本軍を無抵抗で通過させた場合、最終的には明軍が勝利する公算が高く、あとで属国の宗主国防衛義務を放棄した朝鮮は明に不忠を咎められ誅滅されるおそれがあった。
だから朝鮮には無抵抗で日本を通す選択肢はなかったと思うよ。
朝鮮にとっていちばんおいしい選択は、抵抗するフリだけして日本軍を通し、日中を「ニ虎競食」で共倒れにさせる戦略。
小国で世界中を征服したモンゴル帝国の例があるから人口や領土差があったとしても完全に不可能だったとは思わない
信長なら現地人の有能な武将を引き立てる事も当然やったろうし
情報収集を重視してたから
朝鮮出兵は最適解。
マクロ経済なんてない時代に、秀吉とその側近達がいかに頭が良かったか、
もっと評価を重くしていいと思う。
始皇帝にしても
煬帝にしても
長期に渡って戦乱続いたあとの統治って難しいんだよね
大量に雇った兵士や労働力の雇用継続がかなりの問題になる
家康は、東京湾の埋め立て工事の労働者に使ってる。平和利用
江戸城工事にも日本中から浪人呼んでるね。
吉宗がやった大規模な河川工事も有名な話。
とにかく領土が恩賞なのであって、代用に茶器にしてるんだけどそれでも無理がある。
領土を開拓しなゃいけないわけで。
明出兵だって、家康を連れて行かなかったのは、手柄立てられて領土をあげたくないから。
子飼いを連れていったのは手柄立てさせて、領土を与えるため。
信長にそんな野心は無いよ。
秀吉の致命的なところは家康を滅ぼさなかったところだと思うわ
家康が秀頼にやったように適当に難癖つけて滅ぼせばよかったのにな
頼朝の危険性に早めに気づいておればよかったという話と同じで、盆には
返らない覆水の話であるねw
いやいやいや秀吉は絶えず家康に警戒しまくってただろ
親友の利家とは違うからな
警戒はしてたけど、潰せなかった、ということだろうw 平家は源氏のこと
一旦は潰してるけど、頼朝が生き残ったせいで、平家は潰れたわけであるねw
頼朝は殺せたけど見逃したから平家は潰れた。
家康は殺したくても殺せなかったからそこが違うと思うぞ。
家康も隠忍自重して、相手に潰されるようなスキは見せなかったのではないかw
泣くまで待とうホトトギスの人だからねw
まあ一度、短期起こして痛い目に合ってるしね。
この朝鮮の役で朝鮮半島の全てとは言わない
一部でも領有できたら、その後の時代もまったく変わったものになったのではないか
そんな気がするがね
何しろ、朝鮮の役の後では明は清に滅ぼされ
中国も混乱したしな
もしかしたら、日本が中国大陸を伺う機会があったのではないか
そんなIFの歴史を考えてしまう
文禄の役は従属させるためだったが
慶長は領土化のための作戦に切り替えてる
10万の兵力の明軍も完璧に捌いたし
あと5年、いや2~3年あれば領土化はできてたのに、まあ外征中に頭領が死ぬってのはそういうことだな、
モンゴルもワールシュタットの後に引き返してるし
長引く外征に参戦した諸大名も嫌気が差していた事も事実だろうが
何しろ絶大な権力を誇った太閤の死んだのだから、今後、主導権争いが起こり日本本土も混乱が起こるのも目に見えているし
そんな時に有力大名たちは自分が日本を不在にしていたら話にもならんと
泡てふためき帰国を決めたのだろう
本能寺の変の後の展開は当然念頭にあっただろうね
滝川一益が清洲会議に参加できなかったところからの転落ぶりは皆まだ記憶に新しいだろう