そろそろ始めるで
今日は荀彧伝や
ニュース
荀彧、字文若、潁川潁陰人也。祖父淑、字季和、朗陵令。當漢順桓之閒、知名當世。有子八人號曰八龍。彧父?、濟南相。叔父爽、司空。
荀彧は字を文若といい潁川潁陰の人である。祖父の荀淑は字を季和といい、朗陵令であった。順帝、桓帝の時代に当世に名を知られていた。子が八人あり、八龍と号していた。荀彧の父荀?は、済南の相であった。叔父の荀爽は司空であった。
彧、年少時、南陽何?異之曰「王佐才也」永漢元年舉孝廉、拜守宮令。
荀彧が年少の時、南陽の何?はこれを素晴らしいと思い言った「王を補佐する才である」永漢元年(189年)、孝廉に挙げられ、守宮令を拝命した。
※孝廉は郷挙里選という人材登用法の一つで孝行な者が選ばれた
董卓之亂、求出補吏、除亢父令。遂棄官歸、謂父老曰「潁川、四戰之地也。
董卓の乱があり、出でて補吏になることを求められたが、亢父令を除した。遂に官職を棄てて帰り、集落の代表者に言って曰く「潁川は四方に戦いが起こる土地です。
天下有變、常爲兵衝。宜亟去之、無久留」?人多懷土、猶豫。
天下に変があれば、常に兵が衝突します。速やかにここを去るのがよろしく、久しく留まる所ではありません」郷の人の多くは土地を懐古して、決断を遅らせた。
會冀州牧同郡韓馥、遣騎迎立。莫有隨者、彧獨將宗族至冀州。而袁紹已奪馥位、待彧以上賓之禮。
その時冀州牧で同郡の出身の韓馥が騎馬を遣わして迎えに来た。随行するものはなく、荀彧は一人宗族を率いて冀州に到った。しかし袁紹が既に韓馥の位を奪っており、荀彧を賓客以上の礼で待遇した。
彧弟諶及同郡辛評郭圖、皆爲紹所任。彧度紹、終不能成大事。
荀彧の弟荀諶及び同郡の辛評、郭図は皆袁紹に任じられる所となった。荀彧は袁紹を計って終いには大事を成すに能わないとした。
時太祖爲奮武將軍、在東郡。初平二年彧去紹從太祖。太祖大悅曰「吾之子房也」以爲司馬、時年二十九。
その時太祖(曹操)は奮武将軍となり、東郡に居た。初平二年(191年)、荀彧は袁紹の元を去り、曹操に従った。曹操は大喜びで言った「私の子房(※)である」司馬となって、その時年齢は二十九であった。
※漢の高祖に仕えた張良という人物の字
高祖を補佐し天下を取らせた傑物であるため、曹操は荀彧を彼に例え称賛している
是時、董卓威陵天下。太祖以問彧、彧曰「卓暴虐已甚、必以亂終、無能爲也」
この時、董卓の威は天下をしのいでいた。曹操は荀彧に問い、荀彧は言った「董卓の暴虐は既にはなはだしく、必ず乱によって終わり、何も出来ないでしょう」
卓、遣李?等出關東、所過虜略、至潁川陳留、而還。?人留者多見殺略。
董卓は李?らを遣わして関東(※)に出し通過した所で略奪させ、潁川、陳留に到り、帰還した。郷の人で留まった者は多くが殺された。
※函谷関の東のこと
古代中国の王朝はその多くが咸陽、長安を首都として定めていたため、それらのそばにある函谷関を基準として土地を東西に分けて呼んでいた
明年太祖領?州牧、後爲鎭東將軍、彧常以司馬從。
翌年、曹操は?州牧を領し、後に鎮東将軍となったが、荀彧は常に司馬として従った。
「地元の派閥の為に頑張るのは中華の伝統やのに
いつの間にか暴君扱いされてもうた……」
董卓って暴君じゃないって説もあるもんな
興平元年太祖征陶謙、任彧留事。會張?陳宮以?州反、潛迎呂布。
興平元年(194年)、曹操が陶謙を征伐し、荀彧を留守に任じた。その時張?、陳宮が?州で離反し、密かに呂布を迎えた。
布既至、?乃使劉翊告彧曰「呂將軍來助曹使君?陶謙。宜亟供其軍食」衆疑惑。
呂布は既に到り、張?は劉翊を遣わして荀彧に告げて言った「呂布将軍は曹操殿が陶謙を討つのを助けに参りました。速やかに食料を提供して下され」皆疑った。
蒼天董卓はある意味演義の董卓から独立した新キャラみたいになってたな
彧、知?爲亂、?勒兵設備、馳召東郡太守夏侯惇。而?州諸城皆應布矣。
荀彧は張?が乱を起こしたと知り、すぐに兵を整えて備え、東郡太守夏侯惇を呼んだ。しかし、?州の諸城は皆呂布に呼応した。
時太祖悉軍攻謙、留守兵少。而督將大吏多與?宮通謀。惇至、其夜誅謀叛者數十人、衆乃定。
その時、曹操のほとんどの軍が陶謙を攻め、留守の兵は少なかった。さらに督や将、大吏の多くが張?、陳宮と謀って通じた。夏侯惇が到ると、その夜に数十人の謀叛者を誅殺し、衆人はこうして定まった。
豫州刺史郭貢、帥衆數萬、來至城下。或言、與呂布同謀、衆甚懼。貢、求見彧。
豫州刺史郭貢は兵数万を率い、城下にやって来た。ある者が呂布と通じていると言い、皆はなはだ恐れた。郭貢は荀彧に会うのを求めた。
彧將往、惇等曰「君、一州鎭也。往必危、不可」彧曰「貢與?等、分、非素結也。今來速、計必未定。
荀彧が行こうとすると夏侯惇らは言った「君は一州を鎮めている人物だ。行けば必ず危うく、すべきではない」荀彧は言った「郭貢と張?らは分かれていて平素より結託していない。今速やかに来たのだから、計略は定まっていないだろう。
及其未定、?之、縱不爲用可使中立。若先疑之、彼將怒而成計」貢、見彧無懼意、謂?城未易攻、遂引兵去。
計略が定まっていないのに及んでこれを説き伏せれば、例え用いられずとも中立には出来る。もし先んじてこれを疑えば彼は怒って計略を巡らせよう」郭貢は荀彧が恐れていないのを見て、?城は攻めやすくはないと言い、遂に兵を引き上げた。
合理主義の曹操より
儒教重視の劉備と相性良かったんかもな
もし劉備と先に出会ってたら
憂悶のまま死なずにすんだから悲しい
裴注に従えば自殺命じられとるし
北方健三先生の解釈では
漢に対するスタンスは劉備とピッタリだけど
劉備ではそこに至るまでの統一事業では曹操に劣るので
結局は曹操に仕えた
そして最期の最期には決裂せざる運命にあったって言ってたな
かなしいなぁ…
北方先生はたまに面白いこというから凄い
又與程昱計、使?范東阿。卒全三城、以待太祖。太祖自徐州還、?布濮陽、布東走。二年夏太祖軍乘氏、大饑。人相食。
また程昱と計って范、東阿を説き伏せさせた。遂に三城を全うし、こうして曹操を待った。曹操は自ら徐州に帰ると濮陽で呂布を迎撃し、呂布は東に敗走した。興平二年(195年)夏、曹操は乗氏に軍を出したが、大飢饉となった。人は互いを食らいあった。
陶謙死。太祖欲遂取徐州、還乃定布。
陶謙が死んだ。曹操は遂に徐州を取ろうとし、帰って呂布を定めようとした。
彼の弟の張超こそ兄をたきつけた黒幕だと思う
張超は正史では反董卓連合を発起人であり
なかなかの野心家策略家で面白いで
そういえば全然注目したことない人物やな
この機に調べてみるのも面白いかもしれへん
>>923
張超の配下の臧洪という将が正史に立伝されてる
曹操に反逆した張?の弟のそのまた配下が
わざわざ単独の伝が立ってるってのは一見奇異やけど
それだけの価値がある面白い人物や
調べてみても損はないで
わざわざ教えてくれてサンガツや
正史はちくまと徳間揃えとるから
今度読んでみるで
彧曰「昔高祖保關中、光武據河?。皆、深根固本以制天下。進足以勝敵、退足以堅守。故雖有困敗、而終濟大業。
荀彧は言った「昔高祖は関中を保ち、光武帝は河内に拠りました(※)。皆、根を深くして本拠地を固めることで天下を制したのです。進んでは敵に勝つに足り、退いては守りを堅くするのに足ります。ゆえに敗れたといえども終いには大業を成したのです。
どちらも関中、河内はそれぞれが拠点とした場所で、荀彧は領地をしっかり守ることの大切さを表す例として用いている
924: 名無し 2017/08/07(月)19:22:54
実は荀彧伝に限って言えば
後付けかもしれん箇所があるんや
もしかしたら詳しいんやなくて
結果から歴史書を作ったのかもしれん
はぇ^~
でも敵軍の参謀が自分の仲の悪い奴とか
仲の良い奴とか把握しとったら怖いわ
それは確かに怖いわ
反間の計とか飛んできそう
將軍本以?州、首事。平山東之難、百姓無不歸心、悅服。且河濟天下之要地也。今雖殘壞、猶易以自保。是亦將軍之關中河?也、不可以不先定。
将軍は?州を本拠として取り仕切っております。山東の難を平定し、百姓は帰心しない者がなく、喜んで服しております。かつ黄河、済川は天下の要衝の地です。今崩壊したとはいえ、なお我らの土地を保つのは容易でありましょう。
これはまた将軍にとっての関中、河内で、先に定めないべきではございません。
今以破李、封薛蘭(※)。若分兵東?陳宮、宮必不敢西顧。以其閒、勒兵收熟麥、約食畜穀。一舉而布可破也。
今、李封、薛蘭を破りましょう。もし兵を分けて陳宮と東で討てば、陳宮は必ず西を顧みようとはしないでしょう。その間に兵を整えて熟した麦を収穫すれば家畜の穀物を節約できます。
※原文ママ
「李封、薛蘭」の間違いと思われる
今はすももを破って
薛蘭を封印しましょうって意味やと思います!(適当)
草
封印せなあかん薛蘭って何者やねん
破布然後南結揚州、共討袁術、以臨淮泗。若舍布而東、多留兵則不足用、少留兵則民皆保城不得樵採。
呂布を破った後に揚州と結んで南進し、共に袁術を討ち、淮河、泗水に臨みましょう。もし呂布を捨て置いて東に行けば、(本拠に)多く兵を留めるなら用いるに足りず、少なく留めるなら民は皆城に籠り木こりをすることも出来ません。
統率武力70台知力政治30台ばっかりやな
布乘?寇暴、民心益危。唯?城、范、衞、可全、其餘非己之有。是、無?州也。
呂布が虚に乗じて襲撃し、民心は益々危うくなりましょう。?城、范、衛だけは全う出来ますが、その他は自分の物ではなくなります。これでは?州が無くなるようなものでありましょう。
若徐州不定、將軍當安所歸乎?且陶謙雖死、徐州未易亡也。彼懲往年之敗、將懼而結親相爲表裏。
もし徐州を定めずにおけば、将軍はどこに帰る所があるのでしょうか?そして陶謙が死んだといえども、徐州を滅ぼすのは容易ではございますまい。彼らは往年の敗戦に懲りており、まさに恐れて結託し、互いに表と裏を突いてきましょう。
人格者で強いって
上司にしたい三国志武将上位に入りそう
高順さんええね
ちなみにワイが一番上司にしたくないのは甘寧や
ワイ最初見た時、曹操の部下かな?って思った
魏延知った時もそんな感じやったし
>>944
トリオの一人って印象しかないわ
あの辺りのトリオはイヤでも使わざるおえんからな
呂布プレイだと張遼高順陳宮貂蝉抜くとぱっとしたやつ居ないから
そいつらを活用しないとマジで詰む
今東方皆以收麥、必堅壁清野、以待將軍。將軍攻之不拔、略之無獲。不出十日、則十萬之衆未戰而自困耳。
今、東方の人々は麦を収穫して、必ず焦土作戦で将軍を待ちましょう。将軍はこれを攻めても抜けず、これを攻略するも得るものが無いでしょう。出て行けば十日足らずで十万の兵は戦わずに困窮するだけです。
前討徐州、威罰實行。其子弟念父兄之恥、必人自爲守無降心。就能破之、尚不可有也。
以前徐州を討伐した際、刑罰を実行(※)しました。その子弟は父兄の恥を思い、必ず人々は自ら守り、降伏の心は無いでしょう。これを破ったとしても、なお有することは出来ますまい。
※曹操が徐州で大虐殺を行ったことを柔らかく表現しているのだと思われる
夫事固有棄此取彼者。以大易小、可也。以安易危、可也。權一時之勢、不患本之不固、可也。今、三者莫利。
そもそも事を固めるには取るべきものとそうではないものがあります。大をもって小に変えるのは良いことです。安をもって危に変えるのは良いことです。一時の勢いを借りて本拠の固まっていないのを憂いないのも良いことです。今、三つの利はありません。
小を大にするのも、
危険を安全に変えるのも、
勢いで攻めに行くのもいいけど
今はどれも得られないよね
みたいなニュアンスやない?
なるほど
うーんこういうの一発で汲み取りたいなぁ
人材推挙はそれだけデカイ功績ってことやな
特に儒教が主流ならなおさら
人物を評したりコネを作ることがブームな時代やし
ギリギリで本拠地三城を死守した荀彧陳宮の功績は計り知れない
荀彧がいないと曹操は五回くらい死んでた
願將軍熟慮之」太祖乃止、大收麥。復與布戰、分兵平諸縣、布敗走。?州遂平。
願わくば将軍はこれを熟慮されますよう」曹操はこうして中止し。大いに麦を収穫した。また呂布と戦い、兵を分け諸県を平定して、呂布は敗走した。?州は遂に平定された。