教えてください!!先生がテストに出る問題のヒントを出してくれたのですがわかりません!!これがそのヒントです↓↓
ニュース
そんな抽象的な質問されても困るよなあ。
宦官?
人は城、人は石垣、人は堀
ってことで「人」
そりゃ春秋時代からだ
高校の中国史なら土地制度などが頻出なのは受験では常識。
まぁその先生が受験を見込んだ試験をするかは知らんが
法がなければ国家が立ち行かないのは戦国からだろ
まぁ法と言うより中国的制度の原形が前漢で成立するな
高校レベルなら塩鉄専売や法と言ったワードは前漢から、秦で一応法家は出て来るがソレといった法律は出て来ない、郷挙里選とかの官吏登用制度もこの頃
一般的な高校教師ならこれらを出すのがセオリーだ。
高校レベルでも間違った事を教えちゃいかんな
塩の専売は春秋時代から行われてた形跡があるから漢代からの物ではない
春秋戦国時代、秦は後になって法家を取り入れたから最も完成した法を作る事が出来た
商君の変法から法家が始まったんじゃなくてあれは完成形に近い物だった
秦帝国になってかも法律無しに国家は動かず漢代以降の物とは言えない
法律の名前こそないが内容は微妙に残っているのも重要
出すんだったら漢代からは~なんてアホな設問じゃなくて漢代で重要な法律は何か~みたいな設問するのが一般的だろ
高校の世界史教師のレベルを買いかぶりすぎじゃないか?
結構適当なこと言ってるもんだ。
そうか?漢代以前にも存在はしたが、漢代以降ようやく国家政策の中心になった
という考え方もできると思うが。
俺はそれくらいしか思い浮かばん
答えはなんだったか教えてね。
試験問題は
軍政にとってかわられて機能してなかった時期だってあるじゃんよ…
秋葉原?で三国志オタクにサイン求められたって言ってた
>>192
試験乙。
>秋葉原?で三国志オタクにサイン求められたって言ってた
ワロスwwwwwwww
まあ官僚組織なんかは、当時の思想よりは現実に強く影響される問題かな。
現実問題にどう則するかも思想であると言われればそれまでだけどねw
158: 名無し 2005/12/26(月) 22:36:40 0
縦横家はどちらになるのでしょうか?
外交って作為か無為自然か…。
知っている方いましたらぜひお願いします。
>>158
そもそも縦横家に思想なんか関係なさそうな気がするが…
強いていえば弁舌の才が必要だろうから、儒家→名家→縦横家の流れか?
それよりも、諸子百家は結構相互に影響を受けてるから
流れがどうとかあまり気にしないほうがいいと思いまつ。
韓非も李斯も荀子の弟子ですよ。
にもかかわらず『韓非子』には
喩老篇・解老篇とかあって、『老子』を法家的に解釈していたりする。
結局韓非子くらいにもなると儒家・道家両方の影響受けてるんだお。
>>162
最近の論調だと韓非は荀況の直接の弟子じゃない感じになりつつある。
荀況は斉の襄王の元で祭主やってた時期に老荘、というより逸周書や陰符経にかろうじて残ってる西周以前の黄老思想を翻案し、結果的に儒教の主流とはかなり距離ができたものの当時の諸学をほぼまとめた。
管仲の趣味だったのか、桓公の時代に魯から大量に古竹簡を戦利品として鹵獲したものが当時の斉には伝わってたらしい。であれば亡命前の孫武も史官時代に古記録に目を通したかもしれない。鬼谷子辺りの本物の著作が伝わってれば…惜しいな
縦横家って分類基準はその思想・発言内容じゃなくて行動様式だからねえ。
今でいうロビイスト。保守もいれば左翼もいるし、プロ市民運動家、詐欺師、スパイいろいろ。
老子を中心に教えますが、法律も教えます。ついでに弁論術もやってます。みたいな
墨以外
有難うございます。こんなに返事を貰えるとは思ってませんでした。
では、縦横家はどちらの流れをくんだわけでもなく、春秋戦国時代において、様々な諸子百家が生まれる中で、「じゃあ外交を考えよう。」と思い立ったという風に見るのがいいみたいですね。
日本の戦国時代には孫子、呉子のわうな兵書、荀子や孟子のような思想書は記されなかったのですか?
>>185
日本の戦国が中国のそれと決定的に違うのは、降伏した兵士を何万も埋めて殺すようなことはしないし、負けた国の国民を全部奴隷にして好きな所へ引きたてるようなこともない。
ヨーロッパで例えるなら、日本の戦国時代は中世の封建領主同士の戦争、中国の戦国時代はナポレオン戦争以後の国民国家同士の総力戦。同民族で一部の階層だけでやってる戦争がなあなあなのは当たり前の事。
だれかが趙高を誅することができればもっと続いていたのかね。
軍閥の寄り合い所帯とか、政権の維持に軍隊しか頼れない(全国統治じゃなくて政府内の話ね)ならともかく秦は中央政府の権限が半端じゃなく強かったから、軍人では簡単にはどうにもできんかったと思うぞ。章邯は正確には軍人とも違うしね。
むしろ秦では政治派閥の形成が進まなかったような感じを受けるんだけど、そういった中間層の弱さが短命や趙高独裁の原因のような気が。
たくさんの柱(官僚とか政治家とか軍人とか)で支えてるんじゃなくて、 一本しか柱が無くて、あとはひもでぶら下がってるという。秦はそんなイメージがする。
秦に政治派閥がなかったとは思えんのだけど。李斯が韓非を警戒して獄死させたり、蒙恬が排斥されたり。政治派閥を分析するには、いまだ分からないことが多すぎるんではないかと。
二世の元年の早い時期に関東で乱が起こっていることからも、秦末の乱は趙高の独裁にそく起因するものでなくて、もっと古い根を持つものだと思われるし、趙高ひとりを除いて乱が終息するするほど安直なものでもない気がする。
臣が上の上まで上り詰めるとことごとく足引っ張られるのは他国と変わらん
そもそも他国の人間を排斥する運動らしきものがあったような
漢の高祖が項羽と戦った時は歩兵戦が主だったみたいだけど、トルコ遊牧民王朝の秦はやっぱ騎馬戦だったのかな?
秦は歩兵+一部騎兵でしょう。
主力は歩兵だったんじゃないの?兵馬俑などを見るに。
違うの?
匈奴の騎馬戦術を見て、漢民族の王朝が取り入れるようになるんだよ。
主力は歩兵だよ。
それから、騎馬戦術=戦車(馬車)じゃない。
代わりに騎射が多くなってる
鐙の発達する4-5世紀まではこの騎射がメインで
騎馬戦は行われていたとは考えにくい
洛陽、長安のすぐ北(100キロくらい?)は異民族の支配地域ですよね。
何故、何百年間もこのような状況を許してきたのでしょうか。
差し迫った危険は感じなかったとしても、都を安全にしておくのが普通だと思うのですが。
地図帳持ってないから詳しいことはわからんな。
もっと南に移せばいいのに。
白馬=馬と仮定すると黒馬=馬も成立する。
すなわち白馬=馬=黒馬となるが、
白≠黒であるため、白馬=黒馬は誤りである。
このことから、白馬=馬という仮定が誤りであることが分かる。
よって、白馬は馬に非ず。
自信ないけどこんな感じじゃなかったっけ
うーむ、含める、という概念が無いとは。中国の古代の偉人って結構バカなんですね。
「白」とは色を表す概念である。
「馬」とは形を表す概念である。
「白馬」は色と形を表す複合概念であり、
純粋な形概念である「馬」と同一とはいえない。
って言う説明もある。
でも、これを言っちゃうと「白馬は白くない」って言えそうな気もするな…
複合概念の「白馬」と純粋な色概念の「白」だって違うって言い張れるし。
イコールではなく、
馬、の中に黒馬や白馬やシマウマや葦毛馬や軍馬やサラブレッドがいる。
これらそれぞれはイコールではなく、樹形図で示される
でFAになりそうなモンなんだが・・・
「白馬は馬に非ず」理論をもとに、
「トヨタは自動車会社に非ず」など、たくさんの亜流を作り出せるなあ、と。