東洋史をやっている人には今更ですが。
孔子の昔馴染みが、地べたに尻をつき、
膝を立てて(無作法な態度で)孔子を迎えた。
それを見た孔子、
『こいつと来たら若い頃から礼儀知らず、
成長しても何の取り柄もなく、その癖長生きだけはしている。
こういう奴を賊と呼ぶのだ。』
と言い、杖でそいつの脛をぴしりと叩いた。
現代人でも耳の痛い人がいそうな話。
ニュース
そうです。儒は法家と違い「階級を乗り越える」思想です。
だから80過ぎの老人でも行儀が悪ければ、こういう目に遭う。
ところで山野さんは有名なテレビ番組のなんでも鑑定団に出てる、
あのメガネの有名な鑑定師さんみたいですね。
「はあ?孔丘何様だよ」か「あー、孔子さん"いいね"」なのか
>>118
少なくとも、孔子にここまで言わせたからには相当だったと思いますよ。
弟子の宰予は『論語』の中であまりいい役にされていませんが、彼を始めとした
弟子が失態を示した場合や、管仲などの人物を評価する場合でも、理由をきちん
と述べた上で(今回も述べてはいますが)、「であるからにして、管仲が礼を好む
というのであれば、礼を好まぬ者などおるまい」等と評して終わっている。
軽くにでも手を出すというのは珍しい。
しかし、昔なじみ相手だからこそ、ここまで出来たのではないかと思います。
門番が孔子だと聞いて
「ああ、あの夢みたいなことを求めている人ね」と言われたり、
隠者に「隠棲すればいいのに」と言われていたと聞いて
「決断力の必要なことだが、しかしそんなことはたいしたことではない
(俗世で挑戦を続けるのが大変なのだ)」
と独り言のように言い返してみたり、
弟子がいい加減なことをしていたと聞いて
「もうあいつの出鱈目なことを言う歴史も長いぞ。
お前たち(周囲の弟子)、あいつの所に攻め込んでもいい」と言ったり。
面白い人ですよ。
忠と孝のいずれが優先されるべきかは、中国では古来議論の的。
もっとも、孝とするのが伝統的な価値観であった。
曹操存命中のある日、曹丕は宴の席で問うた。
「君と父が重病になったが、薬が一丸しかない。どちらに与えるべきか。」
その場であっさり結論が出るような問題ではない。
意見紛々、ある者は君と答え、ある者は父と答えた。
曹丕の補佐をしていた、若い頃から頑固者の学者の邴原もその場にいたが、
議論に加わろうとしない。
しかし、そこにあえて答えさせようとするのが曹丕という人物。
そして、それに「父」とあっさり答えるのが邴原という人物であった。
曹丕も、それ以上追及することはなかった。
酒の席だからこそ言えたとも言えますが、質問者が曹丕という時点で後難を
考えると酒が不味くなるどころではない質問でした。
父の曹操は君を先祖より優先させる発言を何度かしているのである意味曹丕
も孝と言えなくもないのですが、父と答えたら粛清リストに載りそうで怖い。
孔子も邴原も早くに父を亡くしていますが、人生において現実より観念の世
界に親が存在していたことも、孝を強調出来た所以だったかもしれません。
七歩の才や于禁の扱いは有名ですが。
曹丕はある時、楊修から贈られた名剣を見ていた。
お気に入りで、即位してからも所蔵していたものである。
楊修はとっくに死んでいたが、曹丕は思った。
「あいつは曹植に肩入れしていたな。」
普通、そこは処刑された故人を偲ぶ場面でしょうに、出て来るのが恨み言とは。
曹丕が交わりを結ぼうとしていたのが曹植に接近されたので、無理もないか。
楊修処刑後、曹操はわざわざその父に息子の死を伝え、反応を見ています。
憔悴しながらも堂々としていたので曹操は気圧されたという、これも悪い話。
日本においては今も家族が犯人を隠匿した場合
罪に問われないという法律がありますね
法律的には期待可能性の問題とかいろいろ理屈はつけていますが
儒教的発想がないとは言えないでしょう
そのような価値観が普遍的であることを前提とした期待可能性ですしね
ローマのカエサルの幕僚ラビエヌスの脱走は忠孝問題に似てる
当時のパトーローネスは父権を血縁だけでなく
地縁等にも拡張したものとみなせる
ローマ共和国や軍のボスより家族を選んだということでしょうか
>>133
>ラビエヌス
移動を退却と誤認されて敗戦・戦死は悪い話ですね。
誤解や勝手に気を回したことが悲劇を生じるというのはよくありますが。
『三国志演義』では、楊修が気を回して撤退準備をさせ、処刑されている。
九鬼嘉隆は関ヶ原前に西軍につき、息子守隆は東軍についたが、気を回した
家臣豊田五郎右衛門の勧めで切腹。
家康に嘆願して助命を勝ち取っていた守隆は、助命を伝える死者と父の首が
伊勢で遭遇したことで激怒、豊田を竹鋸引きの刑に処したという。
アクティウムの海戦も、普通言われるところではクレオパトラがアントニウ
スが戦死したと誤認して逃亡したのが敗戦のきっかけでしたか。
戦争で急遽移動して混乱を招いたというのは、リッサ沖海戦が思い浮かびま
すが(厳密には開戦直前)、悪い話ですね。
カウティリヤ
インドの政治家。バラモン出身。
ナンダ朝の王から屈辱を受けたため、
マウリヤ朝の祖となるチャンドラグプタの挙兵を助け、
ナンダ朝を滅ぼした。
『君主論』よりよほどえげつない内容で知られる
『実利論』の著者に擬せられている。
司馬子期
中山君が士大夫を集めて供応した際、
司馬子期という者もその席に連なっていたが、羊羹が、
ここでは禅僧が日本に持ち込んで和菓子の元になった羊のあつものが
彼の所まで行き渡らなかったため、このことを深く怨んだ。
そして楚へ行って楚王に説いて中山国を討たしめたため
中山君は逃亡した。
肝付氏と鶴
大隅で勢力を張っていた肝付氏の家紋は鶴であった。
両家面会の際、肝付氏側からの料理に白魚の汁が出されたが、
これが不味かった。
そこで島津の家臣があてつけにいわく、「鶴の羹ならよかったのに」と。
鶴は肝付氏の家紋であり、
これに怒った肝付の家臣が「それなら狐でも出そう」と、
島津が稲荷を信仰していたことを知っていて言い返し、
怒った島津の家臣が抜刀して幕の鶴紋を切ってしまい、
場は喧嘩別れに終わった。
肝付氏は島津氏同様鎌倉以来の名門であったが、
この後島津氏に敗れ、臣従する。
なお、スネ夫の声優であった肝付兼太(本名は兼正)氏も、
肝付氏の子孫である。
羊羹で余談(あくまで伝説)
宋の太祖趙匡胤は、若い頃貧乏であったので麦粉を練った食品しか持っておらず、
それだけでは飲み込めずにいたところ、
見かねた羊羹の屋台の店主が汁を一椀出してくれたので、
汁に麦粉の食品を投じて食べることが出来た。
皇帝に即位した後、皇后と二人で宮殿を抜け出して食べに行き、
銀百両を与えたという。
>>161
>カウティリヤ
こういう書物って暇がないと書けないから
政治家本人がかいたかね?っておもう
マキャベリも暇人になったからかいたわけだし
英国のとある城の牢獄に、城主に目を潰され、去勢された男が囚われていた。
どういう素性で、どういう経緯でそんな目に遭わされたのかは、定かではない。
ある時、男は牢獄を抜け出すと、城主の一粒種を人質に取り、塔に上った。
城の一同はおおいに慌て、男の要求を問い質すと、
城主も己の如く去勢されよと言う。
どうせ盲目なのだからと城主は侮り、去勢されたふりをしたので、
男は問うた。「どこが痛いか」と。
城主は答えた。「股間が痛くて堪らぬ」と。
それを聞いた男は嘘だと断じたので、また城主は去勢されたふりをした。
「どこが痛いか」「胸が痛くて堪らぬ」
これもまた嘘だと見抜かれたので、城主は本当に去勢された。
奥歯が痛くて堪らなくなった。
それを聞いた男は欣喜雀躍。
「やれ嬉しや、汝が家系を断ってやったぞ。」
そう言って城主の息子を突き落とし、自らも宙に身を躍らせたのであった。
去勢すると奥歯が痛むのかな。
今度ニューハーフヘルスで訊いてみよう。
孔子より43歳年少の有若は孔子に似ていたので、
孔子の死後他の弟子たちに推戴された。
ある日、弟子の一人が有若に問うた。
「昔、孔子が外出の際に雨具を用意されましたが、はたして雨が降り出しました。
どうして予見されたのですかとお訊ねすると
『『詩経』に「月が畢星にかかれば雨を降らす」
と言っているが、昨夜月が畢星にかかっていた。それで分かったのだ。』
とのことでした。
しかし、他の日に月が畢星にかかっていたのに、その日は雨が降りませんでした。
また、商瞿にまだ子がいなかった頃、
『彼は四十を過ぎて五子を儲けるであろう。』と予見され、
これも当りましたが、何故お判りになったのでしょうか。」
有若が答えられずにいたところ、その弟子は言った。
「そこは貴方が居るべき席ではない。」
今なら「前者も後者も偶然だ」で済むのですが。
18世紀前半頃。京都では大仏饅頭や大仏餅を商うことが流行。
四条畷にも、近江上味という饅頭屋があった。
ある時、店先に乞食が来て銭を出し、饅頭十個を売れと言ったが、
店主は「お前のような非人には売れない」
と邪険な態度。
乞食が「我らとても人なり」と言ったが聞き入れないでいたが、
あまりに騒ぐので、それなら下に居れと言って
「耳があるなら聞け」と乞食の被っていた手ぬぐいを投げ捨ててこう言った。
『この饅頭は常に上質に作り、高貴な方々に差し上げている饅頭だ。
お前のような乞食が食うなど分不相応。
食いたいなら人並みの身分に出世してから来い。
お前は人様の情けで生きるために銭を貰っているくせに、
嗜好品を買いたがるなど不届きだ。さっさとうせろ。』
今で言えば、生活保護受給者がお金があるので食べに行ったら
追い出された様な感じでしょうか。
柳沢淇園という、およそ凋落や貧困とは縁のない人が美談として記録し、
やはり金のある人が伝えた話です。
支持する人もいるかもしれませんが、私には美談に思えません。
勿論、今から見ればということもあるでしょうが、
仏教思想の盛んな時代だとまだ乞食に優しい。
儒教思想の流行も影響したものでしょうか。
社会の価値観が変わって
人々が嫌悪感を抱くようになってしまった「美談」というのも結構ありますね。
饅頭屋の話ならばまだしも、
これが釈尊とかキリストとかだと非常に都合が悪い。
何とか現代の価値観に合わせるようにアクロバット的な解釈を繰り返すか、
後世の加筆と決めつけて無視するか、原理主義的に居直るか、
なかなか困難な舵取りが要求されるようです。
>>237の話が、当時の価値観では美談だったということは、
逆に言えば、当時は低い身分でも代金を出せるなら、
本来高貴な人相手の店の商品も買えるのが普通だったんだろうね
その柳沢なにがしって人のことはまったく知らないが、その話だけ読むと、
なんか日頃、社会の風潮を苦々しく思っていて「近頃の若いモンは……」
「最近の店は……」などと嘆くだけで自分じゃ何もできず、たまたま同じ
思いから相手に説教した人の話を聞いて、スカッとした、だから美談として
書き残した……
そんな印象を受ける
まぁ理屈は通ってるな
饅頭十個をあがなえる乞食というのは所謂詐欺師ということなのでは?
働いてる人から見ると眉をひそめる人間のような
それなりの布施は受けられたのかもしれませんね。
私もこれっぽっちも美談だとは思いませんが。
高貴な客のイメージダウンになることも嫌っていたようですし、
乞食である以上は施しでも駄目でしょう。
儒教というのは、ものすごく乱暴に言ってしまえば、
社会的・感情的な格差を肯定した上で、
社会的な地位は自助努力(学問)により向上するという教え。
エリートが人の上、非エリートが人の下というのを肯定する。
「嫌なら這い上がれ」というのを正論と受け入れられる人間には美談でしょうが、
この人物がいかなる過去や能力を持っているか分からず、
一律に生活保護受給者を怠け者扱いするような思いやりのなさを感じます。
上の記事は『雲萍雑誌』に拠りましたが、柳沢編を疑う説もあります。
いずれにせよ、一定以上に裕福で学問も出来る人の作でしょう。
時計を買い求めようとするな、
百姓町人が茶道など始めたら農事が疎かになるからするな、などの分不相応を
咎めた話が散見されます。
儒教というのはすごく乱暴に言ってしまえば
動物は親を養わないのに人間は親を養えという革命的な主張だよ