アメリカンフットボールの黎明期のこと
激しいスポーツなので、選手が死亡する事故があって、
アメリカのマスコミや世論は、「あんな危険な競技は禁止すべきだ!」
という論調で沸騰した
が、その死亡した選手の遺族が、
「故人はアメリカンフットボールが大好きでした。
どうか、故人が愛したスポーツをなくさないでください」
と嘆願する手紙を当時の大統領セオドア・ルーズベルトに出した
ルーズベルトは、アメリカンフットボールを存続させ、
その代わりに、二度とそのような事故がないよう、防具をつけるように
指示した
アメリカンフットボールの選手がプロテクターを身に着けるのは、
それ以後のことである
セオドア・ルーズベルトという大統領は
私個人としてはあまり好きではないが
このエピソードは好きだな
ルールなんてない御神木奪い合うはだか祭みたいなものだからなw
リアル首絞めとかやってる版画とかも残ってる
ちょっとオカルトちっくだけど、イギリスの幽霊関係の本にあった話
ナポレオンがなぜイギリス侵攻しなかったかというと
イギリス中の魔女が集まって、ナポレオンの心にイギリス行くな!
と念じたから
ヒトラーがイギリス侵攻しなかったのは
イギリス中の超能力者が集まってヒトラーの心に働きかけたから
それと第1次大戦や第2次大戦で大陸で戦うイギリス軍が不利になったとき
雲の上から高らかなラッパとともに弓矢で応戦する援軍があらわれて助かった
ってのもあった
カミカゼが吹いて蒙古軍を倒したって話と似てるな、
島国根性かなーと思ったんだがどうであろう、各々方
ムガル帝国五代皇帝、シャー・ジャハーンの治世の時の話
皇帝、シャー・ジャハーンは悩んでいた。
ペルシャから訪れた大使がインド式のお辞儀をしないのである。
いくら親切にもてなしてもその大使は皇帝を侮っているのか
高飛車な態度を貫き続け決してインド式のお辞儀をすることは無かった。
そこで皇帝は一計を案じた。
謁見の場で大使に会う予定だが入口の大門を閉じて、
くぐり戸だけ開けておくように命じる。
このくぐり戸と言うのが、体を大きく曲げ、
ちょうどインド式のお辞儀をするときのように
頭を地面のほうに下げ、大層苦労してやっと人一人が通れるようなものだった。
皇帝としては
「大使はインド式のサラームよりもっと卑屈な姿勢をさせられた」
と、言う事にしたかったのである。
が、大使はこの計略を見破った。
大使はくぐり戸を頭から入らず後ろ向きに入ったのである。
皇帝は裏をかかれた事に腹を立て大使に向かって
「このろくでなしめ!そんな恰好をしてロバ小屋にでも入る気か!」
と怒鳴った。
すると大使は平然として
「こんな狭い入口をみてロバ小屋と思わぬものがありましょうか」
と答えたという。
シャー・ジャハーンとペルシャの大使 2
シャー・ジャハーンがある日、大使に向かい
自分が造営させている新しい都市であるデリーは
イスバハーン(ペルシャの首都)に比べてどう思うかと尋ねると
大使は声高に誓ってこう言った。
「神にかけてイスバハーンはあなたのデリーの土埃には及びません。」
シャージャハーンはこの言葉をデリーに対する賛辞と受け取った。
が、大使はデリーの土埃が酷いのでからかってやったのだと語ったという。
シャー・ジャハーンとペルシャの大使 3
シャージャハーンが大使に
「歴代のペルシャ王に比べてインドの王たちの権勢をどう思うか言え。」
と迫ったところ。
大使が答えるには
「インドの王様がたと言えば十五、六の大きな月で、
ペルシャの王たちと言えば二、三の小さな月と申しましょうか。
これほどよい比較の対象はありません。」
シャージャハーンはこの答えを聴いて、たちまち良い気分になったが
すぐその後で、この比喩は自分にとっててあまり有利なものではなく
大使が言いたかったのはインドの王はだんだん小さくなり
ペルシャの王は三日月のようにだんだん大きくなるということに気が付いた。
なにやらペルシャの大使が一休さんめいてきたなw 大好きだ!
シャー・ジャハーンとペルシャの大使 4
ある時シャー・ジャハーンは大使の返事がぞんざいで傲慢だったので
けしからぬと思いこう言わずにはいられなかった。
「このろくでなしめ、お前のような気違いを送ってよこすとは
シャー・アッバース(サファヴィー朝の第5代皇帝)の宮廷には
まともな人間がいないと言うことか。」
すると大使は
「いえ、とんでもない。
宮廷には私よりはるかにまともな人間が、しかも大勢おります。
が、陛下にふさわしい大使を、と言う事でございましょうな。」
と答えたという。
この大使絶対後藤又兵衛って名前だろ
まさかペルシャにいたとは…
シャー・ジャハーンとペルシャの大使 5
シャージャハーンはついにキレた。
皇帝は不遜で何度も煮え湯を飲まされたペルシャの大使に
敬意を払う事は無くなり
隣接する大国の使者だというのに大使を気違いとしか呼ばなくなった。
ある日、皇帝は密かに命を下した。
口先では適わないとからと実力行使に出て屈服させようとしたのか
…それとも事故に見せかけた暗殺を狙ったのか。
大使が城の会議室に続く狭い通路を通る際に
強情で機嫌の悪い象を一頭放つ事を命じたのである。
後日、大使が駕篭に乗ってその通路を通る時が来た。
手筈通り暴れ象が放たれる。
が、大使は間一髪のところで駕篭から飛び降り難を逃れ
手練れの部下に象の鼻を射かけさせ追い返す事に成功したという。
シャー・ジャハーンがいい人だったんだろう、実話なら・・・・
それだけ当時のペルシャが脅威だったって事じゃないか?
アッバース1世は
衰退しつつあったサファヴィー朝を盛り返した中興の祖らしいし
フマーユーンならボケ殺し、
アクバルなら機智で返すイメージがあるという点では、
この手の話で出す名がシャー・ジャハーンというのは絶妙。
>アクバルなら機智で返すイメージがある
でも、アクバルにもビールバルという頓智で有名な人物がいるよ。
アクバルとビールバルのエピソードもユーモアに満ちててなかなか面白いよ。
賢い君主のイメージの強いアクバルだけど、
ビールバル相手には一杯食わされてる。
義満に対する一休、秀吉に対する曽呂利新左衛門のようなものですか。
これが家康や吉宗相手だとしっくりこないわけで、そこそこ活気と流動性の
ある時代の君主の方が、こういう胡散臭い人物が出る余地がありそうです。
真の馬鹿殿相手ではないというのもまたよし。
アクバルにも名言は多い。
「才能に違いがあるのは、人類が永続する源泉である」など。
>>147
なるほど、
それなりに活気ある君主のほうが頓智もより引き立つということかな。
>アクバルにも名言は多い。
アクバルは基本的に名君だったので、インドでは今でも好かれてるらしく、
その手の名言もそれなりに多く残ってるんだろうね。
ちなみに、ビールバルのエピソードで一番好きなのは以下の話。
ちょっと頓智とは違うけど。
ある日、ビールバルは子供の世話に追われ、宮廷に遅刻してしまった。
アクバルはビールバルに対し、
「子守りぐらいで遅れるとは情けない」と怒ると、
ビールバルはそれに反論し、
「子供の世話はとても大変なのですよ」と言った。
そして、アクバルに対し
「実際に子守りをやればその大変さが分かるでしょう。
今から私が子供の役をやるので、
アクバル様は私を子供だと思ってあやしてください」と言った。
そして、いきなり子供のように泣き出し
「あれが欲しいよー、これが欲しいよ~」と駄々をこねだしたのだ。
アクバルが必死であやそうとするも、
ビールバルはいつまでも泣いて駄々をこねまくった。
とうとうアクバルは降参して、子守りの大変さを認めたのだった。
めでたし、めでたし。
何かスケールが違うわ
はインドの伝統ですか。豪快な。
>角に松明を灯した牛
源義仲の策が有名ですが、長門本『平家物語』も言及しているように、元ネ
タは田単でしょうね。伊勢盛時もやったという話があります。
馬は『雑兵物語』に陣中での暴れ馬に気をつけよとはあるものの、人為的に
暴れさせて利用したという話は、寡聞にして存じません。
『徒然草』に、人を突く牛は角を切り、人を食う馬は耳を切って標にすると
いう決まりが見え、これは平安期まで遡るようですが、牛馬を利用して平時
に殺した話が、はてあったものかどうか。
馬が厩で守護のために飼われていた猿(孫悟空が天で厩番を命じられたのも
これに由来するといいます。タイでは象舎の番にも飼われていた)に噛み付
いて片輪にしたという話はありますが、人を殺した話はなし。
名馬生喰というのは人に噛み付く気性から命名されたそうですが、殺した訳
ではなく、だからこそ飼われたのでしょう。
ヘラクレスが捕えたディオメデスの馬や、小栗判官が乗りこなした鬼鹿毛は
実際に人を食い殺したとされていますが、どちらも性質を誇張した伝説です。
したことが原因で落命しています。悪い話(?)ですが。
落馬が原因で死亡した人物は数多いものの、これはなかなか無い死に方。
流石。
都市で放し飼いの豚って
所有権やら上のような事故おきたとき損害賠償はどうなってたんだろう
羊が畑の作物をくった場合の損害賠償責任は読んだことあるけど
>>162
わざと家畜を放って挑発するという話もよくあったのでしょうね。
『イリアス』にも、私戦の動機の一つとして挙げられていましたが。
『正法念処経』の挙げる地獄の中に、雨炎火石処といい、象に酒を飲ませて
人を殺した者が墜ちる地獄がありました(それ以外の罪人もいますが)。
象関連以外の罪も墜ちる条件に含まれているものの、『往生要集』にも登場
しないマイナー地獄ですが、多分インドでは象で人を殺す人間もそれなりに
想定されたのでしょう。
ガトリングガンを開発したガトリングは
この発明で兵士の死傷者が減ると考えていた
百人分の働きをする武器があれば戦争に投入される兵士が少なくて済む
投入される兵士が減れば死傷者も減るという理屈だった
ガトリングガンを過去の物にした
コルト・ブローニングM1895重機関銃を開発したブローニングは
この発明で戦争がなくなると考えていた
強力な兵器が存在すれば戦争は起きないという理屈だった
第一次大戦中にドイツ側の毒ガス研究者も似たような事言ってたな
多かれ少なかれだいたい同じようなことは考えてたろ
ルイ16世が殺傷力の強い新兵器を持ち込まれ、
大臣一同と共に発明して持ち込んだ男を
「酷い悪党」認定して追い返したという逸話がありますね。
本を処分してしまったので、固有名詞などが分からなくなりましたが。
日本育ちの米国人女性、ドロシー・エドガーズは戦時中日本軍の暗号解読に
当っていた、というのはいい話ではありませんが。
戦後日本人ジャーナリストが日本生まれの彼女の弟が
アメリカで存命中であったので電話をかけたところ、
「何分明治者で御座いますので、どれほど正確な記憶か…」
と日本語で言われて驚いたという逸話は好きです。
戦間期のソ連での事
ある男が無実の罪で裁判を受けていた
男は裁判官の前で自身が潔白と党への忠誠を訴え続けた
男の主張を聞いた裁判官はこう答えたという
「あなたが無実なことは分かっている。
だがソヴィエトには労働力が必要なのだ」
男は有罪となった
課せられた刑は強制労働だった
南北戦争時のアメリカ
初期の北軍の将軍ジョージ・マクレラン慎重な人物であり
戦に際しては入念な準備を欠かさなかった
これが功を奏したのか南軍の名将と名高いロバート・E・リーをも打ち破っている
マクレランは名将と持て囃された
が、あまりにも慎重過ぎるので
政治的な理由で戦闘での勝利が手早く欲しかったリンカーンを苛立たせ
民衆からも「のろまのジョージ」と渾名され
求心力を失いついにはリンカーンから解任を言い渡されてしまった
多大な犠牲を出して南北戦争は収束
ある新聞記者がリーの下を訪ね
「北軍で最高の指揮官は?」
と聞いた
するとリーは
「マクレランだ。文句無しに」
と即答したという
ジャガイモ飢饉にあえぐアイルランドの惨状を憂いた
オスマントルコの皇帝アブデュルメジト1世は
アイルランドの農民に対して義捐金を送ることを決定した。
が、オスマントルコが予定していた義捐金の金額は
ヴィクトリア女王がアイルランドに施した金額2000ポンドを
遥かに上回っていた為、女王はオスマントルコ側に
義捐金を2000ポンド以下に減らすように要請。
結局オスマントルコの義捐金は
当初の十分の一以下の1000ポンドになってしまった。
ガンジス河畔のある村に
ヒンドゥー教の聖者と誉れ高い一人の老人がいた
彼は毎朝日の出と共に聖河で沐浴を行うのを日課にしていたが
彼と一緒に沐浴して功徳にあずかろうと村人たちも一緒に沐浴していた
ある日、老人が胸まで水に浸かって沐浴していると
上流の方からけたたましいエンジン音を響かせ
河面を波立たせながら進行する蒸気船が通過した
これに朝の厳粛な祈りを妨げられた老人は激怒
蒸気船の船員に向かってこう叫んだ
「いい加減にしろ!神の河を騒がせる不届きは、このわしが断じて許さぬ!
お前たちのような不信心者は船ごと皆飲み込んでやるから覚悟しろ!」
これを聞いた異教徒の船員たちは笑いながらこれに応えた
「鉄の船ごと、俺たちみんなを飲みこんでやるだとさ。
これはありがたい。聖者と誉れ高い方に飲み込んでもらえりゃ
俺たち皆まっすぐ天国行きだ。
俺たちは今夜六時、帰り船でここを通るから
ぜひとも約束を守っていただきましょう。頼みましたぜ!」
囃し立てる船員たちに老人は頭に血が上ってしまい大声を張り上げる
「忘れるな!六時だぞ!後になって吠え面かいて謝っても許さんからな!」
さて、このやり取りは朝の沐浴の時間に行われていた
いつものように功徳にあずかろうと村人も一緒にいたのだ
「聖者が鉄の船もろとも、船乗りたちを飲み込んでしまうらしい」
噂はたちまち村中に広まり隣の村にまで流れていた
その日の約束の時刻、噂を聞きつけた人たちで
河岸は大きな祭でもあるかのように賑わった
人だかりの中には弟子を従え顔をひきつらせ青ざめた様子の老人もいた
信者たちは彼に平伏して迎えたが
老人はこれに目もくれず河の中へと入っていった
やがて約束通りに下流からエンジン音を響かせた蒸気船がやってきた
異教徒の船員達は蒸気船を聖者に近づけると船を止めて言った
「さあ、約束通り、船もろとも俺たちを飲み込んでいただきましょう!
聖者の胃の中に入れてもらえりゃ
こんど生まれる時はバラモン(司祭階級)様だ。
歯の無い口でもぐもぐやらずごくりと一気におねがいしますぜ!」
船端から身振り手振りで面白おかしく悪態をつきだした
河岸には固唾を飲んで見守る信者、半信半疑の野次馬達で溢れ返っていた
引くに引けない聖者はまばらな歯で船縁に齧り付く
しかし歯が立たない
必死の形相で何度も試みるものの鉄の船には歯型すら付かない
やがて聖者の額からは滝のような汗が流れ出し
飛び出しそうなほど見開いた目玉からは涙がぼろぼろとこぼれ出した
その時、老人に付き添っていた弟子が岸に向かって叫んだ
「みんな!師匠が涙を流しておいでだ!
あんな無礼な船乗りばかりでなく鉄の船にまで憐みを掛け、
赦しの涙を流しておいでだ!
さすがは俺たちの師匠だ!ありがたやありがたや」
この言葉が岸に伝わると集まった群衆は皆、聖者の寛大な慈悲心を称えた
老人は岸に戻ってくるとまるで凱旋してきた将の如く、威風堂々としていた
村人たちの尊崇の合掌に迎えられ、
大手を振って夕闇の中へと姿を消したという
モンゴル帝国がサマルカンドを支配していた頃の話。
キプチャク汗国のベルケ汗は、
サマルカンドのバーハルズィーというイスラムの聖者を崇敬していたので
ある時、使者を遣わして黄金のパイザ(通行証)をバーハルズィーに贈った。
バーハルズィーは「これは何かね」と使者に聞くと
「これを身につければあらゆるトラブルから身を守ることができるだろう」
という答えが返ってくる。
するとバーハルズィーは
「ではそれをロバにつけて草原に放ってみてくれ。
ロバが狼どもに食い殺されなかったら受け取ることにしよう」
といって、結局パイザを受け取らなかった。
大航海時代からこっちの世界史。
でもフランスのルイ16世がフリゲート2隻の指揮官として
太平洋探検に送り出したラ・ペルーズ伯爵は、
すでに現地人が住んでいる土地を勝手に領有化するなんて
やっちゃいけない事だと航海日誌に記し、
その言葉を実践した。時代の趨勢を無視するお人よしに乾杯。
冒頓単于が即位した後、
東胡が所有する駿馬を頂きたいと使者を遣わしてきた。
群臣は反対したが、
単于は隣国との好を重んじて「惜しくは無い」と駿馬を送った。
これに増長した東胡は、
今度は単于の妃を頂きたいと使者を遣わしてきた。
群臣は怒って戦をしようと言ったが、
単于はやはり隣国との好を優先し、妃を送った。
次に東胡は使い道のない砂漠を要求してきたので、
これならくれてやってもいいと言った臣下もいたが、
国の基である土地をやれるかと単于は激怒。
くれてやろうと言った臣下を切り、
東胡を滅ぼして王を切り、人民と家畜を奪った。
己の物は出せたが、国の物は出せなかったという男の話。
しかし、即位した経緯を知っていながら、よく要求出来ましたね。
あの話で駿馬と愛妻を殺していたので砂漠ともども執着がないと見たものか。
新聞広告で知りましたが
『文芸春秋』の新刊に尖閣絡みでこの故事が引用
されているようです。
むかしむかし
あるイングランドに強欲な領主ととても心優しいその妻がいたそうな。
夫が領民に課す重税を改めさせんと、
ある日ついに妻は意を決し馬に跨って街をデモ行進。全裸で。
というわけで、
いい話かつエロい話というユニークさがうれしいゴダイヴァ夫人伝説。
Wikipediの記事についてる絵は恥じらいを含んでとてもナイス。
ただの伝説じゃん。
実在のレオフリック伯に失礼!重税の根拠もないし、
変態どころか夫婦揃って敬虔で妻のストリップなんか許すわけない、
というのが地元コベントリーの見解です。
こんなオイシイ伝説を町おこしに使わないなんて勿体なさ過ぎだろう
恒例のゴダイヴァ・フェスティバルでは、
ぜひゴダイヴァ夫人コンテストの開催を・・・
イタリア以東の例しか存じませんが、
夜馬などに跨った裸の女(魔女の原型か)
や人狼が凶作の精を追い払うという伝承がありました。
案外、イングランドにも類似の伝承があり、それが変化したのかもしれません。
誰も見てはならないのに見た者がいたという、
民俗的な禁忌を連想させる要素もありますし
(一番古い記録からあるのかが問題ですが)。
このゴダイヴァ夫人の故事に由来してるらしいね
ロシア皇帝アレクサンドル2世の戴冠式の時。
先帝以前から仕えていた老将軍がレガリアの宝珠を捧げ持つ役だったが
緊張と人いきれで一瞬気が遠くなり宝珠を床に落としてしまった。
大聖堂中にごろごろと宝珠が転げ落ちる金属音が響き渡り
皆なんとも言えぬ気まずい雰囲気に。
すると、新帝は大音声で叫んだ。
「今倒れたことが大事なのではない。
彼が戦場で雄々しく立ち続けたことが大事なのだ!」と。
お年寄りを大事にする逸話はいいな(・∀・)
前漢の元帝の時代、飼われていた熊が柵を越えて皇帝に襲い掛かり、
皆怖れて立ち向かわずにいたところ、一人馮婕妤が立ちふさがって熊を防ぎ、
その隙に熊が刺殺されて事なきを得た、という話を思い出しますね。
ついでに。
北魏の皇帝に胡国から獅子が献上されて来た。
時の皇帝は獅子を哀れみ、故郷に返してやるように命じたが、
使者は獅子の世話が大変で養いきれず、途中で殺して帰還してしまう。
使者の苦労を聞いた皇帝は、敢えて罰することはなかった。
確か『洛陽伽藍記』にあった話ですので、興味がおありの方はそちらを。
さすがは名将
何時いかなる時でも執るべき最善の行動がわかっている
アルゼンチンがスペイン支配からの独立戦争に踏み切った1813年、
その緒戦であるサン・ロレンソの戦いの最中、
サン・マルティン将軍は倒れた愛馬の下敷きになり、
身動きがとれなくなってしまった。
わらわらと迫り来るスペイン兵、将軍ピンチ!
そのとき身を挺して将軍をかばい、間一髪の危機を救った一兵士がいた。
やがて独立軍は体勢を立て直しスペイン軍を敗走させる。
将軍の盾となって致命傷を負った兵士は、
勝利を得て幸福だと言い残して野戦病院で息を引き取った。
建国に寄与した英雄としてアルゼンチンでは有名な話で
この兵士ファン・バウティスタ・カブラルを顕彰する銅像や記念碑は多い。
ゼロ戦のプロペラは実はアメリカの企業が特許を持っていた
そこで日本の航空機製造企業はその企業の特許料を支払って製造を行っていた。
その後の第二次大戦が始まって、その特許料の支払いが行えなくなり、
支払いが中断した
その後、終戦。アメリカの企業はもう特許料の支払いは
日本には無理だろうと考えて諦めていた
しかし戦後1年位たってから日本の企業から手紙が来て、
そこに書いてあったのは戦争中に生産した
そのプロペラを使って製造した航空機の数で
その数は優に1万機を超えていた、そして手紙にはこう書いてあった
これだけ生産したので特許料を請求してくださいと、
アメリカの企業は請求書を送った、そこに書いてあった
請求額はたったの1ドルだった
すごく 良い話だな
フランスが独立戦争にあれだけ骨折ってくれたのに
アメリカが渡したのは感謝状一枚だったからな
まあナチスの支配から開放してあげた件でチャラにしてよ。
オーストラリア南部にあるエンカウンター(出会い)湾の名は、
当時は殆ど未知の大陸だった
オーストラリアへ英仏両国がそれぞれ派遣した探検家、
イギリスのフリンダース艦長とフランスのボーダン艦長が
ここで偶然出会ったことに由来する。
当時はフランス革命戦争・ナポレオン戦争と英仏の争いが絶えなかった時代。
互いの船に敵国の旗を見て最初は身構えたが、
こんな地の果てまで来てドンパチすることもないやね、
そうだねお互い学術調査が目的なんだしね。
ということで浜辺にテーブルを置いて食事しながら歓談モードに移行。
その後何もなかったように西と東に分かれてそれぞれの航海を続けたという。
イギリスも出島占領なんてやる必要なかったのに