謙信の遺志を一番受け継いだのは誰なんだろう
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直江兼続ってことになるか
会津120万石から米沢30万石で貧しくなって、
跡継ぎも死んじゃったんで直江家の財産すべて上杉家に返した
信長が聖域なき構造改革で
旧体制をぶっこわそうとするのを光秀が阻止しようとした・・・
というのが本能寺の原因だったと仮定すれば、光秀ですかねぇ・・・
>>290
それな。ともに幕府の守護者だった
あとは秀吉vs光秀の出世争いが光秀の死を早めたか
本能寺の変の直接的な原因はおそらく
「丹波近江の没収→出雲石見への国替」
秀吉は当時跡継ぎいなかったんで
信長の息子・於次丸を養子にして羽柴家を献上するつもりだった
それで評価アップ
上杉は能登とか東西で倒せるそうな所はあったのだから
あっちで戦力を消耗するのは無駄だったろ
>>309
謙信のポリシーや関東管領としての戦略もそうだけど、
そもそも能登や木曾はわざわざ抑えなくても…
いや、寧ろ抑えると面倒な土地なんで
てかいい加減、
上杉に領地拡大の意図なんぞ更々ないってのも踏まえて頂きたい
でもすげぇめんどい人だと思うぞ
貴乃花みたいだと思う
信玄が信濃から美濃に攻め入るのは
不可能?
やってやれないことはないだろうけど
徳川がどう動くか心配になるな
おそらくフェイントというやつだろうなぁ
武田信玄も運がなかった。家康はウンがついたみたいだが
岩村城には別働隊を出してるけど、牽制なんだろな
美濃に楔を打って家康への援軍を出しにくいようにしたのかも
本隊はその間に家康を各個撃破という作戦かもね
やはり恵那や下呂あたりはキツかったんかな道的に。
孔明がわざわざ祇山まで遠回りしたように
馬は平坦な道なら早いが、山越えみたいな道は苦手だしな
遠江・三河に向かうのも合点がいく
あの当時の街道の道幅は車一台が通れるかくらいしかないから補給が大変そう。岩村城を秋山に落とさせたのも補給地点として岩村重要だったから
関ヶ原のときのようには落ちないだろう
スイーツ戦国ドラマだったらしいけど
この謙信はアリだな
膠着
で、兵数に劣る上杉のほうが死者が少ない
トップ同士の力量勝負なら謙信が上だったと思いますよ?
武田は重臣クラスが戦死続出したから被害としては武田のほうが明らかにデカイ。信玄の弟典厩信繁が戦死したことで武田家を纏める重臣がいなくなってしまった。義信事件も信繁健在なら防げた可能性高い
武田は川中島周辺をきちんと確保してるから、
武田の防衛勝ちなんだけどな。
実在だけど、本当に兵法家だったかどうかははっきりしない。
言われるほど山本勘助の兵法に頼ってたってことはなかったのでは?
当時の兵法家って刃物を使った武芸家のことだぞ
軍師というのは、江戸時代以降に用いられた呼称。諸葛孔明の影響らしい。
それまで、山本勘助は兵法家。武芸と城取りが得意な兵法家。
勘違いしていたさんくす
兄の命令で14か15で寺からでてすぐにムチャなガチ戦
死んでこいみたいなやつでアッサリ大勝利。
正にレベルが違うという感じ。
栃尾城の戦いなwww
マジで神がついていたとしか思えない勝利w
寺で兵法とかも勉強してたんだろうけど、
結局軍事の才ってセンスなんだろうなw
ある奴は若い頃から出来る。
ない奴は一生懸命努力して、経験重ねて強くなる
兵法(ひょうほう)とは剣術や槍術のこと
武士は弓術と馬術なので、下っ端(兵)がやることとされた
剣豪将軍が珍しいのはそのため
>>380
まあ秀吉に言わせれば
ただのいくさ馬鹿同士の無駄な戦闘なんだけどねw
戦術的には特に謙信は日本史的にも最強だけど、あまりにも不合理で戦略がなさ過ぎる。
川中島は春日山に近く脅威だったのは確かだが、田植えでもするように連年関東に出張るのが意味不明すぎた。結果的に、多くの土豪を北条に押しやる結果にしかなってない。死ぬことも恐れない兵士の戦い方も、カリスマ謙信あってのもので、信長や光秀、秀吉、信玄などのような、技術的継承性が無い。
春日山など攻める気も無いのに、何故か毎年出没する謙信には、信玄も困っただろうw
係争がなければ同盟で信長を倒すことも簡単だっただろうに。
信濃から日本海抜けるつもりだったから
春日山も取るつもりだったろう
>>388
まあどんなに戦争上手なヤツにでも、
その何倍もの兵や鉄砲集めちゃえば勝てる確率は上がるしねえ
でもそれじゃあつまんないんだよなw謙信みたいな変人が歴オタには楽しい
当然小競り合いは年中起きてると思ってたが
>>1はその丁々発止の一場面というだけじゃないの?
新しい見方でも何でもない
その小競り合いが無かったとするのが江戸時代からの通説
歴史家はそんな訳ないだろと言ってたが今までそれを立証できなかった
そこら中に信玄の痕跡があるんだけど、謙信は無いのよ
彼は長野市以南には下ることは無かったのか詳しい人?
小田原攻めの時も今でいう群馬から関東に入っていくルートだし
信濃は最北部以外縁がないと思うよ
>>383
やっぱ武田領地ど真ん中だから避けたのかな
いっそ上杉が治めてたら別の土地になったかなって面白くて
地元には志賀城て八王子城並に虐殺された城もあるし武田に
第一回川中島のときの虚空蔵山城(上田市北部)が越後勢の南限らしい
>>385
そっかー
もう30kmばかしがんばって南下してくれてたらなあ
世間は武田ばかりで上杉に関心薄いよね
中井貴一のせい
攻めるなら平地続きで一気に勢力拡大できる関東の方を選ぶのが自然だわな
そう言うことじゃなくて
上杉家は関東管領職を世襲してたんだから
当然関東を目指しただけのことだと思うけど
謙信は領土的野心はあまりなかったんじゃないかな
越後の雪が溶け始めると南進してきて
越後に雪が振り始める直前ぐらいにササッと引いてく
迷惑な害虫か天災みたいな奴ら
ちょっと違う
秋に雪が降る前に関東に侵攻して冬の間収穫物を略奪しまくり
春に雪が溶けると越後に帰るのが謙信の行動パターン
関東出稼ぎ部隊w
兵農未分離の農民兵多かったし
豪雪地帯の農民は冬(農閉期)の内職代わりの戦も出来んから遠征はwinーwinやしな
農民兵主体の国は基本的に農業繁忙期に戦はやらんからの
越後は常に内乱の危険性をはらんでいたので越山で越後の軍事力を関東に持ち出すという思惑もあったと言われている
共に頼朝、尊氏の下には絶対付けない星の元に生まれて、
戦って滅び去って行った。悲劇の武将だな
北条から養子にきた上杉景虎は新参者のようだがそこに付いた人は、謙信とその兄が争ったとき、謙信側に付いた古志長尾氏はじめ古参のものが多い
景勝に付いたのは景勝出身の上田長尾氏配下の上田衆や謙信が近江で登用した河田長親や越後北部の揚北衆など新参者中心
北条によって関東管領の座を奪われた上杉憲政までもが景虎側に付いてるんだよな。
憲政は北条に恨みがあるだろうに何故なのかっていまだに疑問。
景勝や兼続や上田衆嫌いやわ。オラが身内以外蹴落とす越後の泥臭い山猿って感じw
景虎派に勝って欲しかったわ。
>>421
御館の乱終結後、中央集権化めざして揚北衆に僅かしか恩賞与えなかったんで新発田重家に反乱起こされてたね
西からは柴田勝家、南からは森長可、東からは滝川一益、北は新発田重家と本能寺の変直前の上杉家は四面楚歌だった
まあ関ヶ原で勝ってたら笑ったかもしれないが
景勝の生涯みたら笑う気にはならんだろうな
誰も信用してなかったと思うよ
まあ誰かを信用してるようじゃ武将失格だし
正月早々徳川に喧嘩売った手紙送るし
まあ親父追放し嫡男殺しちゃう男だからマキャベリストの権化
やり過ぎて方々に恨み買ったのが武田家滅亡の原因
武田を滅ぼしたのは信玄
>>448
うん。人の本質として信玄は賢くない気がする。本人は賢いつもりでも。
妹やら娘さんの嫁ぎ先で困るようなこたばかりして、そりゃ現実主義の北条に「なんのための政略結婚かわかってる?」て思われるよなと。
家族全員まんべんなく不幸にして、結果的に因果がかえってくるとこなんか、ギリシャ悲劇かシェイクスピアかてなもんだけど。
両軍あれだけ戦いあったのに後々それほど憎みあってないっつーのも謙信の個性に依るところがあるよな
ってゆーか信玄の遺言に「いざとなったら謙信を頼るがよい 頼まれたらイヤとは言わないヤツだ」みたいのがあったらしいけど謙信と信玄は認めあってたんかな
川中島も、支配権は武田!だから勝ったのは武田!っても
そのその後に家そのものが滅亡してるからなんか虚しいものがあるし。
だから結果的に
武威で名前を轟かせた謙信のが得して美味しいように見える。
支配権なんてものより大きいものを手に入れたみたいな。
自己正当化の天才だよな
細かい手練手管は信玄が得意とするところだが大きな宣伝戦は謙信が上
まあ謙信は後継者に関してかなりの失態してるけど
謙信が戦の天才、軍神って評価は首をかしげるなぁ
まぁヘタではなく、むしろ上手かったんだろうけども
戦績の大部分を占める関東での戦いは
大勝もしない代わりに大敗もしないという
非常に慎重なものに終始してたようにみえる
(で、焦って無理して力攻めした臼井城の戦いでは敗北したと)
思ってるほどエキセントリックではなく
戦に関しては非常にまとも、ふつうだったんじゃないのか
川中島の戦いの際
「落馬して敵兵に何重にも囲まれたところを家臣に助けられた」
って由緒書が残ってるらしいが
あるいはこの時に懲りたのかもしれん
謙信と本庄繁長の仲違いは
繁長が謙信のピンチ救ったのを鼻にかけてデカイ態度とり
それを謙信が不愉快に思ったからって説があるからな
当時の(家康以外の)武将に健康第一って考えはなかったのだろうか?
毛利元就
母親も娘め90くらいまで生きてるし
本人酒飲まず暴飲暴食せずに運動するから早死にの要素がない
信長がそんだけ長生きなら
そもそも秀吉も家康もとっくの昔に死んでるw
揚北衆は越後の国人だけど東北の諸勢力との関係もあるから複雑なのです
上杉・長尾の家臣ではあるんだけど
勝手に東北の諸侯と外交があると言うこと?
本庄か何かが出羽の大宝寺氏に養子出して
お家乗っ取り庄内地方ゲッツとか色々やっとる
ゲームみたいな単純な主君と家臣って関係は戦国時代にはないのです。
国境付近の国人は寝返ったり戻ったりを繰り返したり独自に外交を持ったりしてる。
揚北衆もそうした外部との利害関係があるから天文の乱に関わってきたのよ。
家臣じゃない
長尾とは同格
越後は上越中越下越と分かれていて下越が揚北
長尾の地盤は上越や中越なんでここらの国人は長尾の家臣化してた
揚北はかなり遠くて長尾家の力が及んでないから独立性が強かった
それに大豪族が多くて本庄とか中条とか大名クラスの力持ってて
東北の伊達や蘆名とつるんでたりと複雑だったんよ
>>476
根本的に
江戸期の主従関係のようなものは
ないからな
主君がいないと生きて行けないという
感覚がな
絶対服従する奴なんか一人もいない時代
トコトン惚れ込んででもいなければ
殉じる事はないから
禄を受けた主従でもすぐ裏切るし
威のある虎が無くなった狐侍は狩っていたし
と言うか少人数で軍勢から少し離れただけで狩っていたし
修羅の時代
信玄大好きとか言ってる奴も
時代が時代なら使い捨ての奴隷でしかないのにw
愛でているだけで崇めてなどいないが?
謙信も信玄も歴史をよーく調べると
両者とも鬼畜行為どっさり
まあ当時はそうしないと生きていけないというのもあるが,,,,,,
リアル世紀末(16世紀)ですから