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南部政長もお忘れなく。
顕家卿を思う時、涙腺が緩むが
その兄の後釜として劣勢の中がんばり続けた顕信にこそ、俺は拍手を送りたい
吉川太平記で楠木正行を見て北畠顕家を思い浮かべるが、彼よりもいくぶんも儚げに見えた
という後村上の感想が心憎い
そして親房が悪役にしか見えないw自分にも他人にも厳しくってイメージなんだろうが
通り越して頑固親父だから、息子3人に比べて魅力に乏しい気がする
北方謙三の「破軍の星」は必読だずぇい!
破軍の星と北畠太平記ぐらいはデフォで読んでるから
秀吉と講和した稀代の名将じゃん
どこのサイト?
手元にあった「日本系譜総覧」
あれは寛政や姓氏辞典が元だが他の雑多な系図が入ってるからあやしいよ?
逆賊になんか負けるわけが無いよ
顕家自身、奥州を出る前から負けるのはわかっていたからな。
師直や顕家の実力がどうこうと言う以前に、戦う前から戦略的に敗北していた戦い。
その間、後醍醐は立川流にハマってる。
高は優れた武将だけど、こと顕家戦に関しては勝ったからといって上とは言えない
奥州馬が強いんだよね
南部家は馬を育てるために派遣されたような家だし
藻前そのうち雑賀衆が強いんじゃなくて鉄砲が強いとか言い出しそうだな
馬と鉄砲を一緒にするお前の頭がどうかと思うが?
言うまでもない事だが、南部家というのは九戸や八戸などに別れていった
この九戸とか八戸とかは馬の養成上の区分であり
そこで良質な馬を育てて多賀府に供給するのが南部氏の役割な訳だ
つまりいざ戦となれば奥州馬を独占し、その技術をもって戦闘できるアドバンテージを持つのが南部家
親房って何?
>>55
>九戸とか八戸とかは馬の養成上の区分であり
糠部の一戸~九戸の地名には諸説有るわけだが…
>良質な馬を育てて多賀府に供給するのが南部氏の役割な訳だ
はて?初めて聞いた説。って事は南部師行は馬を育てる役割か?単なる牧場経営者?
師行公糠部入部は1334年と言う事だが、それ以前に根城南部二代南部政長が奥州に居たはず(津軽説有り)
師行に関しても、三戸近郊に所領が有ったかも?糠部入部直後に、三戸の毘沙門堂建立に際して土地を寄進してる。
入部直後、自分の所領じゃない所を勝手に寄進は出来ない。つまり三戸に南部師行の所領が有ったと考えられるんじゃね?
単なる馬の供給者が陸奥国府代なのか?
>>57
南部氏というのは甲州巨摩群南部郷の加賀美遠光が三子、南部光行が初代
奥州合戦の功により頼朝より糠部郡を賜ったと家伝にある
南部氏が選ばれたのは牧場経営に関係がある御家人だから
岩手郡以北では水稲経営に適さないが、高原が多い為に牧場の経営による軍馬の育成が行われた
糠部郡は一戸~九戸の部に分けられ、一つの部に一牧場が置かれ、その経営手当として世襲の牧士田一町歩が給せられた
南部光行の六人の子の内、行朝、実光、朝清、宗朝、行連が一戸、七戸、四戸、九戸の祖になっている(南部系図より)
よって南部氏というのは牧場経営者であるという面は事実である
南部師行は南部氏庶流として甲州にあったモノを
元弘の乱の際に奥州に下向し、実弟の政長と共に宮方に付く
北畠顕家の主力が関東武士団であったように、陸奥国府の高官は在郷の人間ではないのが多い
師行は北条方の所領を没収している。そして没収した領土を顕家の命令をもって新領主に与えたり、寺社懐柔に使っている
それが南部師行の所領なのである
>>59
>南部氏というのは甲州巨摩群南部郷の加賀美遠光が三子、南部光行が初代
これには異論無。
>奥州合戦の功により頼朝より糠部郡を賜ったと家伝にある
これは三戸南部の言い分であって、糠部には工藤氏や三浦氏等の北条御内人が代官として居た。
吾妻鏡等にも糠部は南部氏との記述は無い。三戸南部の捏造じゃないの?
>南部氏が選ばれたのは牧場経営に関係がある御家人だから
牧場経営(馬産)に関しては、甲州南部牧での経験が有ったと思うが、宗家の三戸系ではなく何故師行が選任されたのか?
>岩手郡以北では水稲経営に適さないが、高原が多い為に牧場の経営による軍馬の育成が行われた
糠部に南部氏が入部する以前から、南部駒の育成は盛んだった訳だが・・・
>糠部郡は一戸~九戸の部に分けられ、一つの部に一牧場が置かれ、その経営手当として世襲の牧士田一町歩が給せられた
南部氏入部以前から九つの戸に分けられて居たんだけど・・・
>南部光行の六人の子の内、行朝、実光、朝清、宗朝、行連が一戸、七戸、四戸、九戸の祖になっている(南部系図より)
三戸南部の後世に作られた系図が元だよね。
>よって南部氏というのは牧場経営者であるという面は事実である
一面は有ったと思う。
>南部師行は南部氏庶流として甲州にあったモノを
元弘の乱の際に奥州に下向し、実弟の政長と共に宮方に付く
元弘の乱の際に、南部政長が奥州から鎌倉攻めに馳せ参じてるが?
>北畠顕家の主力が関東武士団であったように、陸奥国府の高官は在郷の人間ではないのが多い
確かに、師行を始めとする根城南部氏も本領は甲州南部だな。
>師行は北条方の所領を没収している。そして没収した領土を顕家の命令をもって新領主に与えたり、寺社懐柔に使っているそれが南部師行の所領なのである
師行の所領は具体的に何処?
近年の郷土史研究では、>>59氏の内容とは全く違う見解が有る事も知ってほしい。
>>60の意見は基本的に三戸南部氏の資料を疑う所から発生している
過去の資料を疑うのが“近年の研究”だから当然だが
吾妻鏡には南部氏が参戦したとあるのは間違いがない事実であり
後の北条家専制政治内に於いて南部氏嫡流は北条氏に直接仕えつつ、兄弟を代官として奥州本領に派遣していた
>南部氏が選ばれたのは牧場経営に関係がある御家人だから
牧場経営(馬産)に関しては、甲州南部牧での経験が有ったと思うが、宗家の三戸系ではなく何故師行が選任されたのか?
>岩手郡以北では水稲経営に適さないが、高原が多い為に牧場の経営による軍馬の育成が行われた
糠部に南部氏が入部する以前から、南部駒の育成は盛んだった訳だが・・・
ここら辺は>>60が文章をよく読んでないので割愛
糠部南部氏初代の頃の話をしてるのに師行をが出てくるし、
南部氏が入部したから牧場経営が盛んになったなどとは一言も言ってない
>元弘の乱の際に奥州に下向し、実弟の政長と共に宮方に付く
>元弘の乱の際に、南部政長が奥州から鎌倉攻めに馳せ参じてるが?
ここも同上。政長は在官、師行が下向し、宮方に付いたという文である
師行は政長に七戸を領知し、津軽地方に勢力を伸ばしている
師行は甲州南部氏として糠部に送られなかった実長の曾孫を妻として貰ってるので資格はあるだろう
大体、鎌倉末期から南北朝における領主というのは非常に判りにくい
前述したが、おおくの家は自分の領地には親族の代官を置き、本家は北条家と昵懇になるのが常だったからな
それが南北朝の動乱で機能しなくなる訳だし
資料として糠部には工藤氏や三浦氏等の北条御内人が代官として居たのは確かだが
北条御家人の所領増大は鎌倉末期の事だから、最初から糠部に南部領が無いって反証にはならん
南部嫡家は北条氏に勤仕しているし、色々推測出来る
一戸~九戸とか資料も無い伝説を論じても…
正平二十一年の櫛引八幡宮放生絵に於いて、所役負担の要請と八幡加護付の送付を八戸南部から行っています。
糠部総鎮守の神役配分を行う事は、糠部南部宗主と同義と思われ。
正平二十一年は1366年かな?
誰でしたっけ?教えて!
親房
親房って何?
村上北畠氏族説では北畠顕成=村上師清のはずだが、
顕成が継いだんなら、誰が浪岡継いだの?
まあ、顕信と言う線もありそうだけど。
浪岡も顕家の子孫ということだけども、
実際そうかは、わかんないと思う。可能性が高いってだけで。
とりあえず村上水軍は源氏ではあるわけだけど。