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>>3
鎌倉幕府も十分不安定な幕府だったと思うが。
やっぱ徳川幕府に比べると鎌倉も室町も駄目だったと思う。
政治的手腕ないのかな?朝廷から官位もらったりしたのって
意外と対鎌倉を考えてたんじゃないかと思うんだが。
まあそれにしても部下に政治のうまい人がいればな。あの時代武士で
政治うまいのなんてほとんどいなさそうだが、
それに戦術的天才であっても
あのやり方は古参の武士には受けが悪いような気がす
結局は誰もついてこなくなるのがオチなような?
西国での平氏追討は戦術家としては優れていた。
しかし、問題なのは、官職云々もだが、御恩と奉公の関係が分かっていなかったのでは。
義経は頼朝の名代だ。だから手柄を立てるべき立場ではない。
作戦は考えても良いし、実行しても良いし、戦っても良い。実は戦闘そのものはあれで
まったく問題なく、勝利した。三種の神器の問題はあるが。
問題は、その戦果を義経の手柄にしてはいけないという事だった。
例え義経のおかげで勝ったとしても「鎌倉の御家人たちの奮闘のおかげで勝つことができた」
という風に義経から頼朝に報告するような形があれば、その後の展開は大きく変わっていた
ことだろう。
多分北条一族が凄かったんじゃないかな?頼朝は北条一族の操り人形
って感じするわ。
頼家・実朝の外戚が北条氏だから、そこで北条氏が際立ってきたような
外戚文化だからねえ、この頃は
>>12
けど北条氏がそれほど力持つまでになるのを
止められなかった頼朝ってのはどうなんだろう?
結局、義経やノリヨリだかを遠ざけ、北条氏独占の時代を
作ってしまったし。結果実朝で滅んでしまったわけだし。
北条政子が一番の化け物な気がするな。
>>15
平氏一族の奢りと没落を見ちゃったからだよ。
平氏は身内に甘く次々に昇殿した結果、
清盛の妻の兄まで恩恵にあずかった。
挙句が、
平氏に非ずんば人に非ず
だし。
だから身内に厳しくしなければ武士や世間に示しがつかないと考えたんじゃ?
その身内が、KYな義経。
>>19
亀レスだが、徳川は身内で固めたりしていない。
というと誤解の元かもしれないが「譜代」と「親藩」の違いでいえば、
徳川一族はむしろ政治に参加できないようにした。
本家の後継者となれば別だが。
譜代は、鎌倉時代で言えば義経ではなく、関東の御家人たちだ。
だから、この部分は源頼朝と徳川家康は共通するものが大きい。
家康は政策の要諦として「吾妻鏡」を読んでいたというから参考に
した可能性もある。
創業者一族を過剰に優遇したら、拠って立つ組織が長持ちしない。
これは現代の企業も似た傾向があるが。
身内仲が悪い源氏
消滅した源氏
平家と戦わないで鎌倉と平家が弱ったところに義経が出てったら
もっとうまい事やれたんじゃないかな?
藤原秀衡に大局観がなかった?
木曽と連合組めてたらどうだろう?木曽残党あたりをまとめてたら。
無理かな。
やっぱ平泉が味方について西で勢力伸ばし
関が原で頼朝と決戦とかになってたら面白かったんだが。
義経は西国ではエグい戦さをしたからな
相手を調略するようなやり方で攻略したら、平氏の残党を味方にできたかもしれないが
一の谷、屋島、壇ノ浦って奇襲戦法や船のかじ取りを射殺すなど、相手からしたら卑怯千万
のやり方で勝った。これが後世に至るまで義経の武勇を高めたけれど、反面支持基盤が
拡大しないその場限りの戦いという事もできる。
義仲の残党も一緒じゃないかな。義経に帰順しようなんて残党はまずいないんじゃ?
関東の武士たちは頼朝あっての関東で、義経はその名代くらいにしか思っていないから
頼朝と義経が対立したらみんな義経から離れるよな。
この辺り、後世の楠木正成、織田信長、坂本龍馬にも似ている。
反面、徳川家康など、信長と共に滅ぼした武田の残党を抜け目なく配下に組み込んでいるし、
後北条氏滅亡後は関東で北条残党も組み込んでいる。遡れば今川の残党も。
敵を滅ぼすか、大将だけ倒して部下は引き込むかで、その後の運命が違うような。
徹底的に倒せばかっこいいけど最終的にはしりすぼみ。
うまく妥協して支持者を増やせば最終的に勝利者、天下人。
でも後世の評価は前者の方が高くなる。
どちらが幸せな生き方なんだろうな・・・・・
前者は、早死にタイプが多いな
朝廷に贔屓にされてる義経なら征夷大将軍ぐらいもらえるでしょ。
頼朝倒したらだけど。
幕府は武士の支持がないと開けないだろ
安定するか不安定なのかは状況にもよるけど、多くの支持がないと幕府は開けないぞ
むしろ江戸幕府などは戦国の果てにできた例外的安定幕府で、不安定ということは
それだけ下の武士の勢力が強かったわけでこちらの方が普通なのかもしれない
鎌倉武士はともかく
朝廷や一般庶民には義経は人気があったと思うけどね
やっぱり、武士の人気がいまいちなのは致命的だよな
当時の一般人は義経のことなど知る由もない
平家物語以降だよ
そういうものなのか?
普通、その時代の著名な人物くらいは知っているものでは?
特に都の人なんかは、当然義仲のことぐらいは知っているだろうし、義経のことも「平家を倒した人」くらいには分かっていそうなものだけど。
凱旋もしているんだし、知らないことは余程興味が無い限り、ありえないのでは?
「一般庶民」という話もいろいろで、地方の人間は源氏だ平氏だが分かるかもしれない。
都に住んでいる人間はやや消息通だろうが、それでも義仲を倒したのも、平氏を追討したのも
「源頼朝軍」という認識だろう。その武将である九郎義経は、よほどの消息通でない限り
知らない名前だ。朝廷から叙任を受けた後は少しは知られるようになっただろうが、その
活躍であるとか、こんにちの我々が義経について持っているような情報は、そのほとんどが
平曲(平家物語)が琵琶法師などにより広まって以降の話となる。
なるほど。そういうことなら理解できる。
ありがとう。
載頼は自力で平家討伐出来ずに援軍に頼ったところがあるから、
立場が弱いんだろ・・・
結局彼も頼朝に追い詰められるが・・・
殺されたのかもしれない
富士の巻狩りの後の消息不明
北条時政が殺したかの確証もないが御家人たちは結局源氏については最終的には抹殺したかったのでは
いや、頼朝が原因で、位の意味だった。
分かりにくくて申し訳ない。
具体的になにがすごいの頼朝って?
>>101
武家にしては良い血筋。
征夷大将軍となって初めて武士のみに近い状態の政治を行った
鎌倉幕府を開いた
13歳で流罪になってから、父の仇をとった
・・・と名目上は言われている事。
幕府を開くって発想はどこからきたのかな?先人に倣うなら
平将門みたいな事しちゃいそうだが。
独立しようとした平将門は失敗した。
独立というのは、相手が(朝廷が)諦めるまで戦い続けるしかない。
平清盛は朝廷内で政権を取ったが貴族になってしまい、新興台頭貴族として反感を買った。
いずれも、朝廷の味方をする勢力に滅ぼされた。
頼朝は、そこで「朝廷の味方をする勢力」に徹したのが勝因だと思う。
後の枠組みは奥州藤原氏に近いかもしれない。
藤原秀衡は陸奥守にして鎮守府将軍、またそれを頼朝が討伐対象にしたこと、源氏はかつて
奥州支配を企て(頼義・義家)その連想から征夷大将軍を望んだのだろう。
朝廷の存在を前提として、実質的に政治を行う組織となった。
簡単に転覆できたと思うけどな。承久の乱なんてそうだし。
>>107
なぜ伊豆の流罪人頼朝に関東の武士が集まってきたかといえば
「源氏」だからだろ?
そして源氏ならなんで集まってくるかといえば、貴種、すなわち
都の高貴な人の一種だからだ。
そんなセンスの日本人が貴族を倒せるわけがない。
武力で倒せても滅ぼしたりしない。
頼朝にしたってそうだ そんなことをしたら自己否定だ。
源氏は三代で滅びたけど、摂家将軍や皇族将軍を迎えて幕府を
存続させたことを考えると、結局日本人が望む求心力って自分
から作ることができずに既存の権威を頼むという発想でしかない
事が良くわかる。
しかし日本人はだから「応用力」が身についたんだと思う。
一から発明はなかなか出来ないけれど、既存のものをより良く
便利な風に仕上げていく能力というものは日本人には昔から
備わっていたんだな。その能力は現代の日本人も受け継いでいるよ。
武家政治ってようは朝廷を傀儡にしてみたいな事なんだろうけど
言ってしまえば中国の宦官がやったこととさほど変わりないんだよな。
自制して真面目に政治したから良かったのかね。
義仲はちょっとそういうところあったと思うし。
後は信長ぐらいかね。
あれって日本史上どういう位置づけになってるだろ?
皇室を優先する大日本史だっけ?とかでは大悪人かな?
天皇はその名の通り「皇帝」って位置づけだし
位の下がる王なら問題ないんじゃね
家康だって貰ってるし
西国で平氏を滅ぼしちゃったんで勢いで全国統一しちゃったって感じな気がする
最初から統一までしようとはしてなかったように見える
自分の周り(関東)の武士が土地持てればいいじゃん程度じゃねーかな元々
それでは平将門と同じなんじゃ?
平忠常もだめだったし、関東・東海くらいじゃ済まない
対抗勢力をすべて排除しなければ根本的な解決にはならないと思ってたはず
そして朝廷とは別に政権をという考え方もあったとオモ
「天下草創」だしね
これは奥州藤原氏も滅ぼした後の書状(九条兼実宛て)に出てくる言葉だけど
平氏も奥州藤原氏も打倒しなければ関東は安穏とはできないという考えはあった
平氏も関東を平定しなければ平氏の天下が続かないと思ってただろう
奥州藤原氏はちょっと別格
これは蝦夷の地域が昔から別の地域だという発想があったからでは?
東国の武士を動員するにはそれなりの理由があったはず
帰ってから自分を絵師に自分を描かせるくらいでないとな
会話ってw
当時は兄弟は相続上の敵でしょ。親・子でさえ犠牲にしても自己の権力を
維持しないといけないわけだから。
いない
出港の前日に嵐に見舞われ、船がみんな沈んでしまい行けなかった
らしい。
義経を担いでくれそうな奴を西国で探す方が展望はあるような
それまでは鎌倉に居住していた
上策・義経直属の兵で鎌倉を奇襲する。
中策・宇治勢多を固め西国の武士を集める。
下策・九州四国に退く。
>>233
義経直属の兵ってどれくらいいたんだろう?
少なそうだな。
朝廷を味方に付けて勢力を増やし奥州と組んで挟み撃ちで関東に攻め込む
ってのがベストだと思うんだけど。
比叡山に逃げ込むってのはどうだろう?
当時あそこは日本版梁山泊ともいえる存在だったし
本来は西国武士と比叡山の兵力を期待して「中策」の予定だったみたいね。
でも西国武士は義経に味方する義理もないから兵力不足、比叡山も荷担に踏み切れなかった。
やっぱ奇襲が一番だよ。危険だけど。
「中策」に奥州を足した戦略がベストだろうが、
下策をとらざるを得なかった理由があったはずだ。
義経の手勢じゃ京は守りきれないだろう
かと言って畿内の武士が義経の味方になって頼朝を防ぐとも思えないな
朝廷工作と平家の取り込みを成功させていればまだどうにかなりそうだけどねえ
それ、まんま水滸伝の北京大名府攻めだな
まとまった兵力が無いんじゃまず鎌倉まで行けないし
全員隠密活動で一城砦都市を落とすってのはちょっと現実離れしてる
もし仮に鎌倉を落とせたとしてもすぐに潰されるのがオチだ
船で近くまで寄って上陸すればいいじゃん。
あの時代船は西国の専売特許だったんでしょ?
騎馬による鎌倉奇襲より可能性が薄いだろうな。
鎌倉ってさ。
山山山山
山鎌倉山
山町町山
海海海海
って地形じゃん。山から火矢で攻撃すれば簡単に壊滅できそうだけど。
常時、兵が山に待機してたのかな?
見張り所ぐらいはあったんじゃない?
それに昔は鎌倉への山道は狭かったから守備側の兵士は少数で守れる。
その間にいざ鎌倉へと武士が集まってくるのを待つんじゃないか?
頼朝には北条氏(まぁこれも弱いが)がついていたが義経にはそういうものがなかったので局地戦では勝てても大局では負ける。