源平合戦ってあるけど大体源氏と平氏の戦いみたいになるけど
源氏 平氏 奥州藤原氏 の三つ巴だったと思うんだよね。
ちょっと三国志っぽいと思うんだけど。平氏と藤原氏が組んだりする可能性ってなかったのかな?
ニュース
平家に近づこうとは思わなかったのかね。
三つ巴だったのは
平氏(西日本)
頼朝(関東東海)
義仲(北信越)
壇ノ浦の頃には源氏優勢になってる
鎌倉軍 28万4千
奥州藤原軍 2万
それはかなりの戦力差だな。
ていうか奥州って2万しか動員できなかったのか。たいした勢力ではなかったのかな。
金色堂作ったりお金もってそうなのに
天下は狙ってないだろうね
将軍として奥州の覇権をというのが基本で
将軍としての権威は朝廷が重要でもあり
日本の武士の時代はそうだな
ちょっと勘違いした
ただ天下は狙ってなかったとは思う
だとしたら平家を倒そうなんてしないほうが良かったんじゃないかな?
平家が生きてたら奥州王としてずっといられた気もする。
ちょうど鎌倉に入ったあたりから全国的に寒冷化するので厳しいね
>>14
また将来、鎌倉幕府に逆らう謀反人を奥州藤原がかくまうかもしれんな
予防のために潰しておくか
by 頼朝
徳川家康は秀頼挑発するのにいろいろやったのに
こんな開戦理由でいいんだな。
だから長く続かなかったんだろう
屋島に戻ってきた平家は実は九州から追い出されてきた格好だし
最近、源範頼が再評価されてるんじゃなかったっけ?
義経がいなくても時間はかかるだろうけど平家は倒せてたって評価になってたと思う。
逃げ場は無くなった
範頼は義仲と合流せんのか?
範頼は小山の神輿だから利害関係対立する
なんか平家ってあっけなさすぎない?もっと粘れなかったんだろうか?
奥州藤原も源氏と平家が削りあって勢力落ちるの狙ってたんじゃないかな
>>27
平氏は天下を取ってからは都に君臨するのみで、支持基盤の西国のケアがなおざりになった
そして平氏が都を追われて西国へ逃れたら、西国武士にそっぽを向かれた
それをみていたから頼朝は京都に住まず、鎌倉を本拠地とし続けたところもあるのだろう
倶利伽羅峠で侍大将クラスが吹き飛んだにしては粘った方
だったら源氏が天下取った時点で義経を即座に差し出すべきだろう。
>>31
今から考えれば本当はそうすべきだったと思う
しかし秀衡は義経をかわいがって育てた第二の父親だ
窮鳥懐に(略ということわざもあるが、義経を斬って鎌倉へ首を送るのが忍びなかったのだろう
また頼朝がもし奥州へ攻めてきたら、義経を大将にして迎え撃つというカードを
残しておくことで、頼朝の奥州征伐を思いとどまらせたいという気持ちもあったり
(もともと義経を秀衡がかくまった時は平家の天下だが、万が一平家が奥州征伐を起こしたら、義経を旗頭にして源氏の蜂起を狙っていたのではとも考えられる)
頼朝はスターリンみたいに残忍だから、たとえ秀衡が義経を差し出したとしても、
「わざわざたよってきた源氏の御曹司を見捨てるとはその罪は看過できない」とかいって
攻撃を仕掛けて来ただろう。
頼朝にとってはどうあっても奥州藤原氏は滅ぼされるべき相手であった。
関東 源頼朝
東北 藤原秀衡
関西 平清盛
として九州でこれらに肩並べられる大物っていたの?
印象なんだけど。名のある武将とかいなかったの?
たった3年で平らげたのが九州よ
蝦夷がもともと勢力を振るっていた東北地方は例外として
武士が台頭した平安時代以降の日本列島の地方では、
都から脱落した貴種(源氏平氏など)を旗頭として地元の武士たちが結集して、
巨大な勢力を形成するという特徴があった
すなわち貴種に頼らず、地元の武士だけで巨大勢力は築きにくかった
ただ戦国時代になると、地元の武士だけで、貴種に頼らずに巨大勢力を築いていくようになった
奥州騎馬軍団を率いて敵対することだった。
だから恫喝はしても実際には攻め込まなかった。そう義経が健在な
間は…。
状況判断が出来なかった藤原氏は結局義経を差し出してしまい後は
皆さん御存知の通り速攻で滅ばされた。
義経にしても『平治物語』(下巻)によれば、騎射を行うのは鞍馬を出てからである。
つまり義経は下総を根拠とする坂東武者である陵助重頼を語らってその手引きで鞍馬を出る。
その重頼を誘う義経の言葉の中に「物射て遊ばん」というのがあるが、義経は鞍馬を出て近江の鏡宿で自分で元服した後、
重頼に弓箭と馬を用意させ、東国への道すがら、重頼に「馳挽、物射」(つまりは騎射、歩射)を習いながら下ったという。
その後、義経は下総で一年ほど過ごすが、そこで狩猟をしていたことが記されている。
いずれにしろ義経が騎射術を習得したのは、鞍馬を出てからと考えるのが妥当であろう。
とすれば『平治物語』にみえるように、奥州に向かう途中(諸国流浪中)や、また、名馬の産地である奥州に行ってからであろう。
義経の身体能力をもってすれば、騎射術の修得も早かったのではなかろうか。
それにしても、戦術的能力の向上には実戦経験が重要である。
自力救済(公権力に頼らず当事者相互で紛争を解決すること)の私戦を繰り返している東国武者とは違い、
義仲追討戦以前の義経に実戦経験があったかどうか疑問である。
あったとしても、鞍馬にいた時の辻冠者原との戦闘ぐらいであろうし、奥州では戦闘はなかったと考えられる。
そうした実戦経験という面では、義経が鞍馬から直接奥州へ赴かずに、諸国を流浪し、しかもその間、恵まれた生活はしておらず、
山賊や野盗まがいのことをしていたと考える方が、戦士能力の育成をという面では、筆者には説得力がある。
しかしその一方で、義経の戦士能力は、戦術的能力よりも戦略的能力にあることを第三章で指摘した。
その点では、戦術的能力が劣っているのは、実戦経験が少なかったからであるとも考えられる。
結局は類推の積み重ねで何とも言えないのだが、鞍馬を出てから義仲追討戦に向かうまでの義経の実戦経験の有無については気になるところである。
近藤好和『源義経』ミネルヴァ書房(2005年)
当時の東北地方は米の生産量は低く、人口が少なかったためである
辺境地帯の有力者ではあるが、中央貴族の平家や関東の穀倉地帯の覇者である源頼朝とは、
比較にならなかったと思う
また、軍事貴族の地位と勢力を持ち、公卿に上った平家や源頼朝とは格が違った
やってるぞ
日本海交易に噛んでて渤海とも交易してた
普通貿易対農業みたいになったら貿易が勝つとおもうだけど
平家と源氏だけは逆なんだよな。
西国一帯の大飢饉他、天変地異がかなり起こってたとはいえ東西拮抗からの巻き返しは充分ありえた
公家が天下を掌握していた頃は、奥州の金を献上して、うまく付き合いができていた
頼朝にその手は通用しなかった
平清盛の場合はもともとの勢力基盤の西国とか、貿易相手の海外には関心が高くても、
関東より先に関心が低かったからね
あったから、中央にある程度従順な辺境の有力者として振舞えたからだろう
中央貴族とも友好関係を築いていた
関東という至近距離に強大な軍事力を持った武家政権ができたことが、奥州藤原氏に
とって命取りになった
鎌倉幕府から誰か派遣されたわけでしょ?
奥州征伐後に頼朝が奥州を関東御家人に分け与えた
蘆名氏は三浦氏の分家
相馬氏は千葉氏の分家
伊達氏
葛西氏は豊島氏の分家
長井荘とか寒河江荘を拝領して、室町時代まで続いている
東北って奥州合戦以後は伊達政宗が出てくるまでは存在感ないよね。
藤原氏が東北収める前は前九年と後三年とか東北を巡る争いもあったのに
なお洞の乱
南北朝期に後醍醐天皇に加勢するために、北畠顕家が奥州の大軍を率いて鎌倉を落とし、
東海道を進軍して伊勢、大和から摂津天王寺まで達し、京都上洛を目指すも、
足利将軍家執事・高師直に敗れて和泉で戦死
東北から大阪まで、敵と戦いながらの大遠征とは日本史でも唯一だと思う
北畠顕家というのも代表的お飾りだよな
東北に所領を持つ関東武士どもが東北へ下る
北畠を担いだ東北武士という名の関東武士が故郷へUターン、鎌倉を攻める
多くの武士が領国へ散り去りスッカラカン状態の鎌倉を落とす
その後西へと進軍
護良親王は?
北畠が奉じていたんは義良親王(後村上天皇)やで
だから宮とか貴族は神輿で指揮を執っていたのは武士かと言うこと?
南朝は気骨ある公家や宮様が多かったからね
武士も顔負けですよ
たとえば頼朝は平家を倒すときに裏から藤原氏が攻めて来るかも
って警戒してたりはしたんだろうか?
>>72
朝廷から木曽義仲追討のために頼朝上洛を求められた時には、
留守を奥州藤原に狙われるからという理由で断ったりしている
奥州藤原は義経を匿うなど源氏に好意的だった一方で、
平氏政権から陸奥守に任じられるなど平氏とも付き合いはあった
奥州藤原とすれば、源氏と平氏どっちが勝っても上手に立ち回れるように
外交したんだろうが、頼朝からは潜在的脅威と認識されるようになったと思われる
友好的勢力と考えていた可能性が高い
奥州でかくまわれていた義経が頼朝の陣に加わるために出征するときも、藤原秀衡は
義経に従者をつけてくれた
やっぱ天下取る人は非情だね。
よく漫画やドラマだと、義経が逃避行の末に奥州平泉へいきなり押しかけて、
秀衡が情にほだされて義経を保護したというお話になっているけど、
実際は奥州藤原の家来か御用商人(金売り吉次?)が秀衡の密命を受けて、
畿内で行き場を失った義経を奥州平泉へ密かに案内したのではないかと思う
義経は頼朝との戦いを決意して後白河法皇から頼朝追討の院宣を得た際に、
畿内や九州の兵力を当てにしていたようだ
義経が都落ちする時も奥州へは向かわず、正反対の九州へ向かおうとした
これは豊後(大分県)の緒方氏を味方と頼んだからだ
しかし船が難破して九州行きは失敗、京都は鎌倉軍に占領され、
緒方氏も鎌倉に降伏。
義経は畿内の公家や寺社に密かに匿われて転々としていたが、
その間に義経の協力者で和泉に勢力を持っていた源行家、大和に勢力を持っていた源有綱、
義経の家臣で伊勢の山賊出身の伊勢三郎が鎌倉軍に相次いで見つかって討ち取られ、
義経は再起の道筋が見えず途方に暮れていたと思われる
そんな中で頼朝は奥州藤原氏に圧力をかけていた
これまで奥州藤原氏は京都の朝廷に直接献金していたが、それを頼朝が仲介して献金することと
一方的に言い渡してきたからだ
頼朝の事実上の挑発とみた奥州藤原は、「有事」に備えて義経を平泉で密かに匿うことと決めて、
迎えの者を畿内の義経の潜伏先へ派遣したのではないかと思う
なぜならはるばる畿内から奥州平泉まで行って、秀衡から「いきなり来られても、匿えません」と断られたら、
義経としては行き場を失うわけで、そんな行き当たりばったりなハイリスクはしないと思うからだ
もし泰衡が義経と手を組み、頼朝の奥州征伐軍と戦い、
義経が鵯越の逆落としのように頼朝本陣を奇襲して頼朝を討ち取ったら、
どうなったのかな?
義経には幕府を開く構想はないから、京都に住んで朝廷や院に仕えるだろう
それこそ義経が権大納言右近衛大将となる
泰衡は陸奥守鎮守府将軍となって、奥州の自治を名実ともに実現かな
幕府を開く構想はなくともその頃には頼朝が幕府みたいなものを開いてるわけだから
幕府構想を乗っ取るんじゃないかな。東北に幕府ができてたかも。
義経が存命だったら頼朝前線に出なかったんじゃないかな
鎌倉軍が相当な兵力を動員できたのに対して、奥州は兵力が少なく、兵力差があまりに
大きいので、たとえ義経を加えたとしても奥州側に勝ち目はない。
おそらく、義経は泰衡とともに、平泉を捨てて奥地へ退却して、鎌倉軍を引き込み、
ゲリラ戦に持ち込むだろう。
津軽あたりまで引き込まれたところで、季節が冬になり、大雪が降れば、鎌倉側の
騎馬隊は立ち往生する。恐らく、そのタイミングで義経は頼朝の本陣を奇襲する
と思う。
ゲリラは大河兼任がやって失敗してる
それで頼朝敗死したらどうなるの?
後白河小勝利って感じ
平家 頼朝 義仲 奥州藤原 朝廷
この5勢力って感じだったのかな?
平家の中では勢力争いみたいのなかったの?
ざっくり宗盛派池殿派小松殿派
清盛の跡は宗盛が継ぎ、同母弟の知盛・重衡が宗盛を支えた。
これに対して宗盛の長兄重盛の子である維盛・資盛ら小松家、
清盛の異母弟の平頼盛ら池家とは微妙な関係であった
源平合戦が長期化・泥沼化するよう工作すべきだった
都落ちして衰退した平氏に、奥州藤原氏が黄金や軍船、軍馬を用立ててもよかった
頼朝は激怒するだろう
でも頼朝が東国と京を維持しつつ西国の平家と奥州藤原氏の両面を同時に相手して
戦うのは無理だから奥州藤原の「勝手な」振る舞いにはある程度我慢して交渉するほかない
これらの独立勢力は、源頼朝に対しても強い自尊心、独立心で接しており、やがて頼朝に
危険視されて滅ぼされていく。
頼朝の鎌倉幕府は東国の独立勢力を許さない体制だった。
平家や摂関家のような緩やかな支配のほうがまだ都合がよかった。
>>97
反頼朝勢力は、基本的に古利根川の東側が本拠地なんだよな。
今でもそうだが、茨城栃木千葉の東関東(方言学用語)は、文化的に東北に通じるものがある。
他方で、神奈川東京埼玉群馬の西関東は、中部地方とのつながり強い。
地理的な関東地方は、実は古利根川(正確には古渡良瀬川)で人文的には東西に分断されてる。
頼朝政権は、関東政権と言われるけれど、実際には箱根以西をベースとする東海政権の雰囲気が強い。
この「東海→西関東→東国政権」という流れは、
北条執権政権、堀越公方、後北条氏、徳川氏と、断続的ではあるがずっと続く。
この話、昔この板でやったら、なぜか「関東は一つだ!」と激怒して猛反論する奴がいて、大荒れになったんだよなw
後の古河公方足利成氏の享徳の乱にしても中央室町側の西関東&山梨伊豆(上野、武蔵、相模、甲斐、伊豆)vs在野の成氏支援の土着武士の東関東(下野、常陸、下総、上総、安房)の争いになってる
むしろ関東は南北よりも東西での争いが割と多いのは歴史的にも結構有るし
千葉は首都圏となってるとしても栃木と茨城は言語学者によっては関東よりも東北方言に含める人もいる(勿論異論反論も多いが)
しかし欧州の藤原氏も、精力的には敵に押されているのでは。
下手に大勢力として臣従されちゃうと揉め事の種が増えるだけだし
よく「中国人は白髪三千丈だからw」とか言って嗤うやつがいるけど、人のこと言えないじゃん。
それでもたった1000人が籠城する千早城を落とせなかったのである
それで六波羅を攻めた足利が23000赤松が7000千種が3000。
鎌倉を攻めた新田が600000。でまかせやな。
信頼度0%
住民より多いぞ。そんなの養えるかい。
さらに吉野や赤坂を落とした鎌倉軍が千早城攻めに後日加わったので、
千早城を攻めた鎌倉軍は最大200万人に達したと太平記では書かれている
日本の歴史で200万人も兵を動員するなんて唯一ですな
これだけの大軍がいて、百戦錬磨の名将・義経がいれば、負けるわけがなかったのに
という幻想のもとになった
実際には奥州は2~3万騎くらいの動員力だったと思う
だから、鎌倉勢に勝てそうもないので、秀衡も泰衡も鎌倉に融和策を取って時間を
稼いでいた
>>111
それでも過大でしょ。
頼朝の奥州征伐軍が最大限に見積もってもそのくらい。泰衡軍はその1/3~1/5ってところじゃないの?
保元や平治で使われた戦力とかせいぜい数百騎だし。
大陸から数万人をお金で雇って奥州に連れてきて奥州藤原軍の兵力を水増しして、
頼朝と戦えばよかった
地域別人口構成比と総人口(千人) 『日本二千年の人口史』鬼頭宏
▽縄文前期
東北18.1% 関東40.8% 北陸4.0% 中部23.9% 東海4.7% 近畿1.6% 中国1.2% 四国0.4% 九州5.3%
▽縄文中期=262.5
東北17.8% 関東36.8% 北陸9.4% 中部27.4% 東海5.0% 近畿1.1% 中国0.5% 四国0.1% 九州2.0%
▽縄文後期=161.0
東北27.2% 関東32.4% 北陸9.8% 中部13.7% 東海4.7% 近畿2.7% 中国1.7% 四国1.7% 九州6.2%
▽弥生時代=601.5
東北5.6% 関東16.6% 北陸3.5% 中部14.1% 東海9.3% 近畿18.2% 中国9.9% 四国5.1% 九州17.7%
▽750年=5589.1
東北4.8% 関東17.4% 北陸8.3% 中部5.4% 東海5.3% 近畿25.1% 中国15.2% 四国6.0% 九州12.5%
▽1150年=6916.9
東北8.8% 関東23.2% 北陸10.2% 中部6.3% 東海4.7% 近畿20.6% 中国10.2% 四国4.6% 九州11.4%
▽1600年=12273.0
東北8.7% 関東16.4% 北陸7.0% 中部5.9% 東海6.4% 近畿31.0% 中国9.1% 四国5.1% 九州10.3%
▽1875年=36527.6
東北10.4% 関東16.0% 北陸9.7% 中部6.1% 東海6.5% 近畿16.2% 中国11.6% 四国7.3% 九州15.2%
>>114
人口論的には、やれんことはないな>奥州藤原氏
平泉は、緩やかながら奥羽をほぼ完全に押さえているが、頼朝は関東の北東側半分を押さえていない。
東海甲信の東半分を加勢しても、圧倒的というほどでもない。
平安時代は、関東といっても北関東の生産性が大きく伸びている時期なので、
鎌倉としては、常陸・下野・下総あたりをデフォで押さえられていないのはかなり苦しい。
>>115
下野は小山・宇都宮・足利・那須
下総は千葉
完全に頼朝の忠実な御家人じゃん
常陸ぐらいだろ関東で鎌倉に不穏なのは
秀衡は自分の死後に長男国衡と次男で跡継ぎの泰衡が争うことを恐れて、
泰衡の母を国衡に嫁がせるというミラクルをやって争いを防ごうとした
その結果国衡と泰衡の争いは起きなかったが
代わりに泰衡は自分の弟4人中3人を斬って粛清してしまった
そして父秀衡の遺言を破って義経も斬ってしまった
とてもではないが頼朝と太刀打ちする器はない
父・秀衡の遺言を守って義経を奉戴したとして、泰衡には鎌倉と戦える成算はあったのだろうか?
到底ないと思ったから、泰衡は、鎌倉との紛争の火種になる義経を斬ったのだと思う
義経を斬ってしまって戦力低下を招いたことから、泰衡は暗愚な人物だと言われるが、
泰衡には鎌倉との開戦をできる限り延ばす以外に手立てはなかったのではないか?
どうすることが泰衡にとって最善手だったのだろうか?
泰衡は平泉の留守を守ると称して平泉に残り、
密かに奥州の砂金を大船に満載し、中国語がわかる僧侶や商人たちを船に乗せておく
義経大敗 奥州藤原軍壊滅の知らせが聞いたら、
泰衡はすぐに船に乗って中国へ逃げる
奥州藤原氏は蝦夷地への航路を知っていた可能性がある。
また、家臣団とともに武器を持って行けば、蝦夷地の支配者として存続することもできる。
函館あたりを拠点にすればいいだろう。
この時代は自分の守る土地の所有権を
いかにして朝廷に認めてもらうかだ。
奥州藤原氏も、陸奥守や鎮守府将軍になって、
朝廷とのパイプがある地位を得ることによって
朝廷と交渉できる立場にあるんだよということを示すことによって
ほかの奥州の豪族に対して優位に立とうとした。
鎌倉方には勝てなかった。
奥州では動員できる兵力に限界があるから。
と宣言すれば、さすがの頼朝も命は取らないんじゃないかな?
よかったのではないか?
石橋山の合戦当時なら、奥州藤原氏が本格的に平家側に加勢すれば、頼朝はかなり
不利になる
関東が割拠状態にあるほうが奥州は安泰になる
その頃の奥州って越後城氏(平氏)とやり合ってるよね
なんか理由があるはずなんだけど
二代基衡と惟常の兄弟争いで、
惟常は越後へ逃れたが奥州軍に追撃されて討死した
だから越後と奥州の関係は深いとみられる
奥州が京都から遠すぎるんだよな。せめて日本海あたりに進出して
もっと勢力ふやせなかったのかな?
初期に頼朝と組んで日本海側から京都に攻め入ってたらいい感じで天下三分できたんじゃないだろうか?
日本海には進出してる
渤海国とも交易してる
ちなみにこの時期飢饉の京都に入ったら木曽義仲の二の舞は避けられないよ
東北に土着して、独立した生活圏を作ろうとした
その点においては、他の関東武士似ているとも思う
異なるのは、支配領域が広大であること、突出した経済力・文化力を持っていたこと、
俘囚と呼ばれた化外の人々の住む僻地にあり、どこか異質さを感じさせることだ
まして陸奥は大国であり、陸奥守の地位は決して低くない
地方武士は在庁官人になるケースが多かった
国司になれるのは、院や摂関家と縁が深く、京都にも拠点を持つ軍事貴族クラスではないか
関東武士で国司(守、親王任国の介)クラスの官位を持っていたのは、志太先生義広、
足利義康など中央とパイプのある軍事貴族が中心だったね
そう考えると、従五位下・陸奥守にまで昇った藤原秀衡は、鎌倉幕府以前の東北の
豪族としては、非常に高い地位にあった貴人と言える
清衡・基衡のころに押領使となって地位を向上させ、秀衡のころには国守にまで至った
当時の天皇が源平合戦を調停できなかったのかな?
で平家を九州王 源氏を関東王 奥州藤原を奥州王
とかにすれば中国の歴史っぽくなって面白そうなのに。
ただ、平氏が摂関家をもしのぐ権門になり過ぎたので、源氏を使って牽制して、
元の役割に戻したいという考え方だったと思う。
一方、奥州藤原氏は辺境の在地勢力なので、陸奥守くらいの官位を与えて、中央に
なびかせた上で、ゆるやかに秩序に組み込もうとしていたと思われる。
そもそも奥州藤原氏は藤原経清という下級貴族が先祖なわけで、
奥州の地方政権としては意味のある存在となったけど、
日本全体から見ると、帝のながれを汲む源平とはカリスマとしては比べものにならなかったろう。
自分的には面白いけどねw
奥州支配には安倍と清原との関わりが必要不可欠
結局はどういう態度を取っても難癖付けて滅ぼしただろう
奥州を征服する過程を頼義、義家に重ねて源氏の正統をアピールする場にもしたかっただろう
将門の乱でも副将に坂上遂高がいるから弓馬の道を家風にした坂上氏が土着してて取り込んだんだろう
>>164
三春の元大名 田村一家は坂上田村麻呂の子孫を自称していたと思ったが
先祖が田村麻呂の落胤という設定
奥州藤原氏は藤氏とはいえ武家の秀郷の末裔
都の平氏は伊勢平氏で国香の末裔
鎌倉幕府の御家人は平将門の縁者の末裔が多く
ある意味で関東武士による平氏と奥州藤原氏の
討伐は将門の乱の延長といってもよい
嘘教えんなよ
前九年の役で負けた安倍氏の流れだぞ
それ母系
中味は安倍だよ
藤原は借り物
権力基盤が脆弱すぎて積極的に動けないだけで
皇統の主流になれたのは
策謀の限りを尽くして勝ち残った結果
大戦争が見られたんだけど
それで喜ぶのは後白河だから
無くて良かったんだよ
最初は後白河救援のため頼朝と協力する気だった
でも清盛が死んで宗盛が後白河院政を復活させたからやる気がなくなった
あとは内乱に乗じて会津を城氏から奪って勢力拡大
頼朝に警戒される
吾妻鏡だと清衡は津軽から白河関までとあるけどさすがに広すぎるわな
義経に付き従った佐藤氏が信夫(福島県北部)の豪族だからな
それに青森の日本海沿岸の十三湊は奥州藤原氏の貿易港だったし、
地域によって支配力の強弱(濃淡)はあるだろうけど、
陸奥国の全域に勢力を振るってたのは間違いないかと
税負担も正税(年貢)じゃなくて力役や牛馬、狩猟物といった雑公事が主体だからね
江戸時代以降の年貢一本の世界観を投影したらダメよ
そんな公領一色ということもない
二代藤原基衡と悪左府藤原頼長が奥州の荘園を巡って紛争を起こしているほどだ
奥州は20万騎じゃないの
関東における源氏と同じように、院や朝廷に強いパイプ持ってる奥州藤原氏に従ってた忠誠心の薄い奴らの集まりだったから
奥州藤原氏 源頼朝 木曾義仲 平氏 か?
それ放置してたら勢力圏の被る平家と木曾義仲が勝手に潰し合うやつだ
源頼朝が挙兵したとき、藤原秀衡は平氏方に加勢して、初期の段階で討ち取って
おくべきだった。
頼朝旗揚げ当初くらいだと奥州は平家方の越後城氏と喧嘩してたよ
まあ平家と源氏がずっと争い続けて膠着状態なら奥州は安泰だったよなw
ちょっと秀衡も見通しが甘かったかもしれん
義仲が後白河と協調路線とってけるならいける
具体的には倶利伽羅以降、義仲が京で認知されて以降、京に攻めのぼる前なら可能性はある
京に入って以降は破綻一直線なので無理。詰んでる
居たら義仲と対立しちゃうし……
あとはもう甲斐源氏や行家に上洛の権利を進呈してババを押し付けるしか……
治承寿永の乱の時系列だとどのみち飢饉で動けない
無理に動いた結果が史実だし
滅茶苦茶興味ある
天ぷらや味噌汁はまだなかったんだよね?
頼朝が平家を滅ぼすのを、ただ奥州藤原が指をくわえてみていたのが何とも悔やまれる
平家が滅べば、次の頼朝の矛先は自分たち奥州藤原なのに
さながら秦の始皇帝が各国を滅ぼしていく中で、
何も動かず、最後になって秦に滅ぼされた斉をみているようだ
一ノ谷の戦いで平家は屋島へ逃れたが、
ここで奥州藤原氏が外交方針を転換して屋島の平家を軍事的に支援する動きをすればよかった
平宗盛は藤原秀衡を陸奥守に任官させて厚遇し、平家陣営に入れようとしていた。
秀衡が頼朝の背後を攻撃すれば、平家と奥州藤原氏に挟撃された頼朝は、二正面作戦になり、
かなり苦しんだはずだ。
秀衡は早期の段階で平家側に立ち、頼朝を殲滅する方針を立てるべきだった。
陸奥守任官で、在庁官人から受領にまで家格を上昇させ、従来より繁栄することができた。
あと奥州藤原氏は平家与力の常陸佐竹氏とも縁があったので富士川の合戦に至る前に連携して鎌倉を牽制してたらなと。
頼朝に所領を叩き出されるまで徹底抗戦した志太義広も巻き込めればと思う。(佐竹と志太、どっちが常陸の代官になるかはおいといて)
奥州藤原氏側も中央から赴任してきた国司を丁重に饗応し、都に多額の献上を行って
いた。だから、平家の政権が続く限り奥州藤原氏は安泰だった。
近隣の新興勢力となった鎌倉幕府こそが最大の脅威だった。
勢力拡大は望めそうにないなあ
(北海道)に新領地を求めるほうがよかったと思う。
そのほうが関東の在地勢力との摩擦や中央の平家との対立を避けて、勢力拡大できた。
源頼朝が石橋山合戦で亡くなっていたら、関東武士団は求心力を失い、鎌倉政権の成立が
遅れた可能性はある(他の源氏貴種が擁立される可能性はあるが)。
そうなると、都の平氏政権もしばらく続くことになり、平氏・鎌倉・奥州で勢力が均衡する。
したがって、奥州藤原氏も泰衡の代まで安泰だった可能性がある。
千葉氏等の源氏方が一時的に勝利を収めた後に
結局北条氏の手中に実権が渡ることには変わりがないのでは。
鎌倉政権の名目なら北条より上、いくらでもいたからね
安達、梶原、千葉、畠山、三浦、秩父、相馬
みんな名門ばかりやが北条自体が頼朝の内臣にすぎんからね