なんかエパミノンダスと面識があったようなことを読んだ記憶があるが
定かではない
そこで確かエパミノンダスに私淑して様々なことを学んだらしい
フィリポスはマケドニアで内乱があった時の戦後処理でテーバイへ人質として送られたんだよ
日本の戦国期とかはまた長槍になってるけど
結局どっちが有利なんだろ
長槍だと戦闘中に動きにくいから嫌われたのかね
>>10
ローマ兵がグラディウス以前に使っていたのは普通の短槍。
マケドニア・ファランクスが消滅したのは、ディアドゴイ諸国が
機動力を犠牲にして槍を長くしすぎて、歩騎連合の機動力のある
ローマ軍団に一掃された。
重騎兵に側面を狙われるようになって
ファランクスは消滅したと解説されているが…
近世初頭に、マスケット銃をパイクマンで守るために
密集隊形が復活
その後銃の性能向上とともに再び下火にということらしい
>>12
歩兵による密集隊形自体は中世でも対騎兵戦術として一般的なもの。
スイス軍がパイクを全軍の1/4に増強した時期のハンドガン兵はわずか2%強。
パイクで銃兵を守るという思想は16世紀スペインのテルシオから。
パイク兵が消えたのは1687年フランスでソケット式銃剣が発明されたため。
この5年後の戦で、パイク兵が槍を捨てて死者のマスケット銃を使う事態が
起きたため、パイク兵の大幅削減が行われる。
銃剣のない単発銃では騎兵の襲撃から身を守ることはできない。
なんだかんだ言って決戦ではファランクスは十分強力だったって事では?
それそこ両翼を破って包囲するという戦術が出てくるまでは
そうだった可能性も高いけどね
しかしペルシアの騎兵には相当、痛い目見させられたとも考えられないかな?
その経験がフィリポスにヘタイロイを編成させたんじゃないかな?
>>15
・ペルシア戦争でペルシアの騎兵はあまり目立った活躍はしていない。
唯一プラタイアの戦いでいくらか撹乱や強襲に力を発揮しているが、
結局いずれもギリシアの重装歩兵に撃破された。
・ペルシア戦争の最終段階であるミュカレの会戦はBC479年、
フィリッポス2世の即位はBC359年。120年はいくらなんでも空きすぎ。
・ペルシア戦争でマケドニアはペルシア側についている。
ペロポネソス戦争において騎兵の重要性が高まったことの方が
直接の起因としてはありえそうだ。
なお、ペロポネソス戦争は会戦で決着がつかず非常に長引いたため、
敵ポリスの地力をそぐ消耗戦になり、そのために民間人の虐殺・敵の
農地の焦土化・敗走した兵への追撃など、それ以前の戦争ではマナー
違反だった行為が頻繁に行われるようになった。結果、これらの行為
に適した騎兵が重要視されるようになる。
また、424年デリオンの戦いで、テーバイはアテナイ軍を歩兵と伏兵の
騎兵とで左右挟み撃ちして撃破している。これによって、騎兵で敵の
左右を突くという戦術も一般化されたのではないだろうか。
ディアドコイ戦争について書かれた本教えて
いや教えて下さい
マカバイ戦争とか面白そうなのに、資料が少ない。
アンティオコス4世エピファネスとか、名前が格好良過ぎ。
でもディアドコイ辺りはぐちゃぐちゃ過ぎて訳が分からない。
最大勢力を築いたアンティオコスが負けて領土が分割されているのに、
子孫がマケドニアを支配していたり、
セレウコス朝が最強っぽいのに、いつの間にかゾグディアナにバクトリアが独立、
パルティアがイラン高原を支配して、更にはベルガモンまで独立して、
マカバイ戦争に負けてユダヤ王国まで出来て、ってボロボロ過ぎだし。
プトレマイオス朝エジプトが一番安定していたのかな?
>>45
アンティオコスではなく、アンティゴノス1世のことじゃないか?
アンティゴノス1世敗死後アジア領土を失ったが、息子のデメトリオス1世(こいつも一時期マケドニア占領)が
ギリシアの拠点と大艦隊を維持して、エーゲ海交易路を支配下におき、ギリシアに強い影響力を保持していた。
そして、その息子のアンティゴノス2世が勢力をきちんとその勢力を継承し以後のマケドニア内部でのごたごたに乗じて、
支配下におけた。
このアンティゴノス祖父子三代の物語は、本当に面白い
>>45
セレウコス朝の広大な領土は、ディアドコイ戦争というマケドニア人の内戦の中で、
ペルシア人などの旧支配者層が、セレウコスとの同盟を選んだ意味が大きい。
だから時代が下って、内戦が収束し始めると、もともとペルシア帝国の
寛容な支配方針で、半独立状態のようだった各地が独自行動するのはむしろ当たり前。
ただバクトリアはアレクサンドロスの東方遠征で置き去りにされたギリシア人、
ペルガモンは、セレウコスに敗死したリュシマコスの残存勢力が中心で蜂起したもん。
>>45
プトレマイオス朝は、プトレマイオスがすごすぎたというか腹黒すぎた。
大王死後から一貫して現地での独立のために行動し、そのために大王の遺体まで
利用している。
また台等するペルディッカス、アンティゴノス1世、セレウコスに対して、
定期的に火種を投げ込んで集団でぼこるようにしている。
個人的には、ディアドコイ戦争の半分はこいつの責任だと思っている。
またこの時期にエジプトは、紅海からインド洋にわたる交易路を発見(大規模交易開始?)して、
インドからの香辛料ルートを確保しており、これらがプトレマイオス朝を安定させた・・・というか最強にさせた
何気にプトレマイオス朝は、第二次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)の一部である
ローマとマケドニアの戦争(第一次マケドニア戦争)に介入して、戦争を続けたい
ローマを黙らせ、
第二次マケドニア戦争では、ローマは開戦前にわざわざプトレマイオス朝に
戦争しても介入しないか、お伺いの使者を送っている。